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札幌地方裁判所 昭和53年(ワ)504号 判決

原告

渡邊恵

右法定代理人親権者父兼原告

渡邊繁

同母兼原告

渡邊範子

原告

伊藤啓一朗

右法定代理人親権者父兼原告

伊藤二三男

同母兼原告

伊藤昭美

原告ら訴訟代理人弁護士

髙野国雄

新川晴美

被告

北海道厚生農業協同組合連合会

右代表者理事

堀野豊夫

被告

深川市

右代表者市長

桜井清美

右被告ら訴訟代理人弁護士

黒木俊郎

被告

札幌市

右代表者市長

板垣武四

右被告訴訟代理人弁護士

斎藤忠雄

馬場正昭

右訴訟復代理人弁護士

川村昭範

武田誠章

右指定代理人

我妻義則

外三名

主文

一  被告北海道厚生農業協同組合連合会は、原告渡邊恵に対し金三三〇万円、原告渡邊繁及び同渡邊範子に対し各金一一〇万円並びにこれらの各金員に対する昭和五三年五月二五日から支払済みまで年五分の割合による金員をそれぞれ支払え。

二  被告深川市は、原告伊藤啓一朗に対し金三三〇万円、原告伊藤二三男及び同伊藤昭美に対し各金一一〇万円並びにこれらの各金員に対する昭和五三年五月二五日から支払済みまで年五分の割合による金員をそれぞれ支払え。

三  原告渡邊恵、原告渡邊繁及び原告渡邊範子の被告北海道厚生農業協同組合連合会に対するその余の請求、原告伊藤啓一朗、原告伊藤二三男及び原告伊藤昭美の被告深川市に対するその余の請求並びに同原告らの被告札幌市に対する請求をいずれも棄却する。

四  訴訟費用は、原告伊藤啓一朗、原告伊藤二三男及び原告伊藤昭美と被告札幌市との間においては全部原告らの負担とし、原告渡邊恵、原告渡邊繁及び原告渡邊範子と被告北海道厚生農業協同組合連合会との間においては、同原告ら及び同被告間に生じた費用を一〇分し、その一を同被告の負担とし、その余は同原告らの負担とし、原告伊藤啓一朗、原告伊藤二三男及び原告伊藤昭美と被告深川市との間においては、同原告ら及び同被告間に生じた費用を一〇分し、その一を同被告の負担とし、その余は同原告らの負担とする。

五  この判決は、第一項及び第二項に限り仮に執行することができる。

事実

(略称)以下、原告渡邊恵、原告渡邊繁及び原告渡邊範子をそれぞれ「原告恵」「原告繁」「原告範子」と、またこの原告ら三名を総して「原告渡邊ら」といい、原告伊藤啓一朗、原告伊藤二三男及び原告伊藤昭美をそれぞれ「原告啓一朗」「原告二三男」「原告昭美」と、またこの原告ら三名を総称して「原告伊藤ら」という。また被告北海道厚生農業協同組合連合会を「被告厚生連」と称する。

第一  当事者の求めた裁判

一請求の趣旨

1  被告厚生連は、原告恵に対し金五三九〇万円、原告繁に対し金五五〇万円、原告範子に対し金五五〇万円及び右各金員に対する昭和五三年五月二五日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  被告深川市及び被告札幌市は、各自原告啓一朗に対し金五一七〇万円、原告二三男に対し金五五〇万円、原告昭美に対し金五五〇万円及び右各金員に対する昭和五三年五月二五日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

3  訴訟費用は被告らの負担とする。

4  仮執行の宣言

二請求の趣旨に対する答弁

(被告厚生連)

1 原告渡邊らの被告厚生連に対する請求をいずれも棄却する。

2 訴訟費用は原告渡邊らの負担とする。

(被告深川市及び同札幌市)

1 原告伊藤らの被告深川市及び同札幌市に対する請求をいずれも棄却する。

2 訴訟費用は原告伊藤らの負担とする。

第二  当事者の主張

一請求原因

1  当事者

原告恵は、原告繁及び同範子の長女、原告啓一朗は、原告二三男及び同昭美の長男である。

被告厚生連は、旭川厚生病院を経営し、また被告深川市は、深川市立総合病院を、被告札幌市は、市立札幌病院をそれぞれ経営している。

2  診療契約

(一) 原告範子は、昭和四八年一月二五日出産のため旭川厚生病院に入院し、同月二九日在胎三一週で原告恵を出産したが、出産と同時に原告恵と被告厚生連との間で原告恵の診療保育を依頼する旨の診療契約が成立した。

(二) 原告昭美は、昭和五〇年二月七日出産のため深川市立総合病院に入院し、同月一五日在胎二八週で原告啓一朗を出産したが、出産と同時に原告啓一朗と被告深川市との間で原告啓一朗の診療保育を依頼する旨の診療契約が成立した。

(三) 原告啓一朗は、昭和五〇月四月一六日深川市立総合病院から市立札幌病院に転医したが、その際、原告啓一朗と被告札幌市との間で原告啓一朗の診療保育、特に未熟児網膜症の治療を依頼する旨の診療契約が成立した。

3  原告恵及び同啓一朗の失明

(一) 原告恵は、昭和四八年一月二九日旭川厚生病院で出生したが、生下時体重が一一六〇グラムの未熟児であつたため、直ちに保育器に入れられ、同年一月三一日まで毎分三リットル、その後同年三月一〇日(生後四〇日)まで毎分二リットルの酸素投与を受け、同年四月二四日体重二八一〇グラムで退院した。

原告繁及び同範子は、同年七月七日ころ原告恵の眼の異常に気付き、北海道大学医学部附属病院(以下「北大病院」という。)眼科において原告恵の精密検査を受けさせた結果、保育器内での酸素吸入が原因で、両眼とも未熟児網膜症にかかつている、すでに瘢痕期に入つており、視力は両眼とも明暗不弁で治療法はない旨診断された。

(二) 原告啓一朗は、昭和五〇年二月一五日深川市立総合病院で出生したが、生下時体重が一〇七〇グラムの未熟児であつたため、直ちに保育器に入れられ、同年二月一五日毎分三リットル、同月一六日及び一七日各約一リットル、同月一八日から同月二二日まで各〇・五リットルの酸素投与を受けた。

同原告は、同年四月一五日になつて、同病院眼科で眼底検査を受けた結果、未熟児網膜症活動期3期との診断を受け、その治療のため同病院小児科主治医滝本昌俊医師(以下「滝本医師」という。)及び眼科藤岡憲三医師(以下「藤岡医師」という。)の紹介で、同月一六日市立札幌病院に転医した。そして同日同病院眼科の実藤誠医師(以下「実藤医師」という。)の眼底検査を受けたうえ、同月一七日両眼に冷凍凝固手術を受けたが、無効であつたため、同月二五日北大病院眼科に搬送され、同科の光凝固装置を使い、実藤医師の手で両眼に光凝固手術を受け、さらに同年五月二日同様にして右眼のみに光凝固手術を受けたが、未熟児網膜症の活動期病変の進行が止まらず、ついに失明するに至り、同年六月一七日市立札幌病院を退院した。

4  未熟児網膜症〈省略〉

5  被告らの責任

(一) 被告厚生連

(1) 全身管理義務違反

前記のとおり本症はもともと自然治癒傾向の強い疾病であつて、多くの場合主治医の徹底した全身管理によつて予防することができるものであるから、主治医としては、時々刻々と変化する児の全身状態を注意深く観察し、これに対し適切な呼吸管理、体温管理、栄養の管理、眼の管理等の全身管理をして児の全身状態を良好に保つべき法律上の義務がある

原告恵の主治医であつた旭川厚生病院小児科の品田茂医師(以下「品田医師」という。)は、原告恵の全身及び身体各部を注意深く観察し、触診、聴診、打診を用いて、体格、栄養、皮膚の状態、呼吸、脈搏の状態、心音等を診断することを全くしなかつたか、ほとんど診察しなかつた。体温の管理についても原告恵の体温は、生後一〇日目位まで三二度C台、以後生後二〇日目位まで三三ないし三四度C台、生後二七日目位まで三五度C台という極端な低体温が長期間続き、ほぼ安定的に三六度C台になつたのは生後三五日目位からであつて、このような低体温の原因は低い環境温度のために体熱が奪われたこと及び適切な加温措置が講じられなかつたことによるものである。原告恵のような極端な低体温状態を改善するためには、より積極的な加温措置(温枕、保温マット、赤外線ヒーターの使用等)を用いるべきであつたのに、品田医師は適切な措置をとらなかつた。

更に、原告恵は、生下時体重が一一六〇グラムであつたが、出生後体重が減少し、生下時体重に復帰したのは生後二六日の昭和四八年二月二四日てあつて、標準より一〇日程度生下時体重への回復が遅れた。これは、低体温が長期間継続したこと及び栄養補給が不適切であつたこと(哺乳量が過少であつたし、輸液もしなかつた。)によるものである。このような体重増加の遅れが本症発症の素地を残し、自然治癒傾向を阻害する悪条件となつたのである。

(2) 酸素管理義務違反

昭和四五年以降の酸素管理の基本は前記のとおりであるところ、品田医師は原告恵に対し、出生直後から昭和四八年一月三一日午後六時までは毎分三リットル、以後同年三月一〇日に酸素投与を中止するまで毎分二リットルの酸素投与を行なつたもので、酸素投与の適応もないのにこれを投与し、しかも原告恵を頻回に観察したうえ病状に応じて酸素を打切つたり、濃度を減らす等のきめ細かな酸素管理を怠り、漫然と長期間にわたり酸素投与を行なつたものである。

(3) 眼底検査義務及び治療義務違反

原告恵が出生した昭和四八年一月当時においては、既に本症に対する確立した治療法として光凝固法及び冷凍凝固法が全国的に実施され、光凝固法及び冷凍凝固法の存在と有効性は全国の開業医にまで行き届いていたのであつて、本症の早期発見、早期治療のための定期的眼底検査(生後一週間目位から、遅くとも生後三週間目位から週一回の眼底検査を行なう。)は広く普及していた。しかも旭川厚生病院は、眼科、産科、小児科等を擁する総合病院であつたから、品田医師の指示により眼科にて定期的眼底検査を実施することは容易であつた。しかるに品田医師は原告恵に眼底検査を受けさせることを怠り、ひいては右の確立した治療手段を尽くす義務を怠つたものである。

(4) 説明義務及び転医義務違反

仮に、旭川厚生病院において眼底検査を実施することができなかつたとしても、原告恵が出生した当時においては、未熟児に対し長期間にわたつて酸素を投与した場合には本症が発症する危険性があること、光凝固法及び冷凍凝固法が本症の治療法として有効であること並びに本症の早期発見、早期治療のためには定期的眼底検査が必要であることは全国の開業医の間で認識されていたのであるから、担当医師としては、本症の発症を予期し、本症による失明という重大な後遺症を免れさせるため、患児側の自己決定権を尊重し、患者側に光凝固法及び冷凍凝固法を受ける機会を与えるべく、本症発症の可能性、眼底検査の必要性及び光凝固法ないし冷凍凝固法による治療方法がある旨を両親に説明したうえ、適当な専門医療機関を紹介転医させるか、その診断を受けるように勧告すべき義務があるというべきである。しかるに、品田医師は、原告恵の両親に対し、右のような説明を全くせず、原告恵を転医させることもしなかつた。

(5) 被告厚生連の責任

以上の次第で、品田医師が全身管理義務(酸素管理義務を含む。)を尽くしていたとすれば、原告恵は本症に罹患せず、仮に罹患したとしても活動期1期ないし2期で自然治癒するか弱視程度で失明を免れた蓋然性が強い。また品田医師が治療義務を尽くしていれば失明を免れた蓋然性が強いし、自らは治療しなくとも眼底検査義務ないし説明義務・転医義務を尽くしていたとすれば、適期に光凝固法ないし冷凍凝固法の治療を受け、失明を免れていた蓋然性が強い。したがつて、旭川厚生病院を経営する被告厚生連は、診療契約上の債務不履行ないし不法行為に基づき、原告恵の失明によつて原告恵、同繁及び同範子に生じた損害を賠償する責任がある。

(二) 被告深川市

(1) 全身管理義務違反

全身管理義務の内容は(一)(1)に述べたとおりであるところ、原告啓一朗の主治医であつた深川市立総合病院小児科の滝本医師は、品田医師と同様、原告啓一朗の全身及び身体各部を注意深く観察し、触診、聴診、打診を用いて、体格、栄養、皮膚の状態、呼吸、脈搏の状態、心音等を診察することを全くしなかつたか、ほとんど診察しなかつた。体温の管理についても、原告啓一朗の出生後約一時間経過した二月一五日午前三時三〇分の体温は三二・七度Cという極端な低体温であり、生後一七日目までは、おおむね三三度Cないし三四度C前後、生後三三日目までは三五度前後、生後四四日目までは三六度C前後の低体温が続いたのであつて、右低体温の原因は低い環境温度のために体熱が奪われたこと及び適切な加温措置が講じられなかつたことによるものであるから、滝本医師は、原告啓一朗の極端な低体温状態を改善するためのより積極的な加温措置(温枕、保温マット、赤外線ヒーターの使用等)を用いるべきであつたのに、これらの措置をとらなかつた。更に、原告啓一朗は、生下時体重が一〇七〇グラムであつたが、出生後体重が減少し、生下時体重に復帰したのは生後二八日の同年三月一四日であり、生下時体重への回復が標準より一二日程度遅れたのであつて、これは低体温が長期間継続したこと及び栄養補給が不適切であつたことによるものであり、体重増加の遅れが本症発症の素地を残し、また自然治癒傾向を阻害する悪条件となつたことは原告恵について述べたのと同様である。

(2) 酸素管理義務違反

昭和四五年以降の酸素管理の基本は前記のとおりであり、原告啓一朗が出生した昭和五〇年二月当時においては、ルーテイーンに酸素を投与する考え方は否定されており、酸素を厳格に制限する考え方が医療現場に徹底していたのである。しかるに滝本医師は、原告啓一朗に対し、出生日の同年二月一五日は毎分三リットル、同月一六日及び一七日は各一リットル、同月一八日から同月二二日まで各〇・五リットルの酸素投与を行なつたのであつて、右酸素投与は、出生直後から全く不要なものであつたし、八日間にわたる酸素投与は、酸素濃度の高低如何にかかわらず是認されえないものである。仮に酸素投与が必要であつたとしても、滝本医師は酸素投与をするにあたり、原告啓一朗の動脈血中酸素分圧(PaO2)を測定して、きめ細かな適切な酸素管理をすべきであつたのに、これを怠つた。

(3) 眼底検査義務及び治療義務違反

本症の早期発見、早期治療のための定期的眼底検査の必要性は、原告啓一朗が出生した当時においては既に広く普及していたものであり、深川市立総合病院は眼科をも有し、眼科の藤岡医師は、昭和四七年から未熟児の眼底検査を行ない、昭和四九年春からは小児科と眼科が連係して定期的眼底検査を実施していたのであるから、滝本医師は原告啓一朗の出生後できるだけ早く、遅くとも生後三週間目位から原告啓一朗に対し、週一回の定期的眼底検査を受けさせるべきであつた。しかるに滝本医師は、生後六〇日の同年四月一五日になつてようやく原告啓一朗に対し眼底検査を受けさせたため、本症の早期発見及び病変の進行状態の把握に失敗した。藤岡医師は、原告啓一朗に対し眼底検査を実施した結果、本症の初期と判定したが、実際には、活動期の3期の終りないし4期の症状を呈し、治療の適期を過ぎていたのである。

また、当時深川市立総合病院には光凝固装置が備付けられているのであるから、滝本医師及び藤岡医師としては同病院において光凝固手術をすべきであつたのに、これを怠つた。

(4) 転医先選定の誤り

滝本医師は、藤岡医師から、原告啓一朗が本症に罹患しており市立札幌病院眼科の冷凍凝固装置で治療するのが最善である旨の示唆を受けて、原告啓一朗を右病院へ転医させたが、藤岡医師の判断は誤つていた。すなわち、北大病院眼科においては、昭和四六年一一月ころから本症の治療法として光凝固法が実施され、原告啓一朗の出生した昭和五〇年二月ころまでには相当数の治療実績を上げていたのであつて、藤岡医師は北大病院眼科において助手をしていたから、これを当然知つていたはずである。北大病院は、北海道では最も水準が高い総合病院との評価を受けているから、札幌市内に原告啓一朗を転医させるのであれば同病院を選択するのが最も合理的である。少なくとも、当時において、北大病院における光凝固法による治療よりも市立札幌病院における冷凍凝固法による治療の方が優れていたなどということはできない。

(5) 被告深川市の責任

以上の次第で、滝本医師が、全身管理義務(酸素管理義務を含む。)を尽くしていたとすれば、原告啓一朗が本症に罹患せず、仮に罹患したとしても活動期1期ないし2期で自然治癒するか弱視程度で失明を免れた蓋然性が高いし、同医師が眼底検査義務を尽くし、滝本医師及び藤岡医師が光凝固法による治療義務を尽くし、又は藤岡医師が転医先を誤らなかつたとすれば、原告啓一朗は適期に光凝固法による治療を受け失明を免れていた蓋然性が高い。してみると、深川市立総合病院を経営する被告深川市は、診療契約上の債務不履行ないし不法行為に基づき、原告啓一朗の失明によつて原告啓一朗、同伊藤二三男之び同伊藤昭美に生じた損害を賠償する責任がある。

(三) 被告札幌市

市立札幌病院眼科の実藤医師は、原告啓一朗に対し、まず冷凍凝固法を実施し、効果がないため、次いで北大病院眼科の光凝固装置を使用して光凝固法を試みたが、結局本症を治癒させることができなかつた。右治療が成功しなかつた最大の理由は、治療適期を逸したことにあり、それは被告深川市の責任であるものの、実藤医師には、第一の治療法として光凝固法を選択しなかつた過失がある。冷凍凝固法には、網膜の後極寄りの部分を凝固することが技術的にできない等の難点もあつて、光凝固法を第一に実施すべきであるとの見解が有力に主張されていたのであり、実藤医師もこのことは承知していたにもかかわらず、市立札幌病院には冷凍凝固装置しか設置されていなかつたため、冷凍凝固法を実施したのである。また、冷凍凝固法及び光凝固法が結局無効であつた原因として、手術の不手際(凝固の個所及び凝固の程度が不十分であつたこと)もあつたと推認するのが合理的である。

以上の次第で、実藤医師の治療には過失があり、右過失がなかつたとすれば、原告啓一朗は失明を免れた蓋然性が高い。よつて、被告札幌市は、診療契約上の債務不履行ないし不法行為に基づき、原告啓一朗の失明により原告啓一朗、同二三男及び同昭美に生じた損害を賠償する責任がある。

6  損害

(一) 逸失利益

原告恵及び同啓一朗は、いずれも両眼失明の障害により、労働能力を完全に喪失した。

(1) 原告恵 金三九三六万二六一三円

(2) 原告啓一朗 金三七八七万七五六二円

(二) 慰謝料

原告恵及び同啓一朗は、今後、日常生活はもとより、成長するにしたがい、教育、職業、結婚などあらゆる面で制限と差別を受けながら生きて行かねばならず、その苦痛は慰謝料として充分に償われなければならない。

原告繁、同範子、同二三男及び同昭美は、現実の育児に対する不十分な教育施設に悩みながら原告恵及び同啓一朗の教育に努め、普通児に比較して何倍もの労苦を伴う介護を行ない、原告恵及び同啓一朗の成長にしたがつて、職業、結婚などのあらゆる差別に対処していかなければならず、原告恵及び同啓一朗の両眼失明は生命を害されたにも比肩すべき被害であるから、その労苦と悲しみは慰謝料として十分に償わなければならない。以上の精神的苦痛を金銭に見積ると、原告恵及び同啓一朗は、各金一〇〇〇万円、原告繁、同範子、同二三男及び同昭美は、各金五〇〇万円が相当である。

(三) 弁護士費用

損害額の一〇パーセントに相当する金額

(四) 以上の損害を原告別にまとめると次表のとおりとなる〈略〉。

7  よつて、原告渡邊らは、被告厚生連に対し、原告伊藤らは被告深川市及び同札幌市に対し、診療契約上の債務不履行ないし不法行為による損害賠償請求権に基づき、前項の各合計額欄記載の各金員及びこれに対する訴状送達の日の後である昭和五三年五月二五日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の各支払いを求める。

二請求原因に対する認否〈以下、省略〉

理由

一  当事者及び診療契約の締結等

請求原因1の事実中前段は、原告渡邊らと被告厚生連との間において争いがない。また、後段は、原告伊藤らと被告深川市との間において争いがなく、同原告らと被告札幌市との間においては、原告啓一朗の身分関係及び被告札幌市が市立札幌病院を経営していることは争いがなく、その余は明らかに争わないからこれを自白したものとみなす。

次に請求原因2の事実については、原告渡邊らと被告厚生連との間においては同(一)の事実は争いがなく、原告伊藤らと被告深川市との間においては同(二)の事実につき、同原告らと被告札幌市との間においては同(三)の事実につきそれぞれ争いがない。

そこで以下において被告らの責任の存否について判断する。

二  原告らの失明に至る経緯

1  原告恵の失明に至る経緯

(一)  請求原因3(一)の事実中、原告渡邊らと被告厚生連との間においては、原告恵が昭和四八年一月二九日旭川厚生病院において体重一一六〇グラムの未熟児として出生したこと、直ちに保育器に入れられ、同年一月三一日午後六時まで毎分三リットル、その後同年三月一〇日まで毎分二リットルの酸素の投与を受けたこと、同年四月二四日体重二八一〇グラムで退院したことは当事者間に争いがない。右事実に〈証拠〉を総合すると、次の各事実を認めることができる。

(1) 原告恵は、母原告範子の早期破水、羊水流出のため、昭和四八年一月二九日(以下、本項においては、昭和四八年については月日のみをもつて表わす。)午後七時三七分、被告厚生連の旭川厚生病院において在胎週数三一週で出生した。生下時体重は一一六〇グラムであり、出生と同時に弱々しく泣き、全身ピンク色で陥没呼吸があつた。産科の担当医師であつた神戸章仁医師は、直ちに羊水等吸引後、鼻腔カテーテルにより酸素三リットルの投与を開始した。また、このころ原告恵は、脈拍一分間一一六、呼吸数一分間六六、直腸温三二・六度Cであつた。

同日午後七時五〇分ころ、神戸医師は臍帯結紮後原告恵を保育器に収容し、陥没呼吸が続くため酸素三リットルの投与を続行した。そして、小児科の品田医師に電話をし、原告恵の状態を伝えたうえ、小児科での保育を依頼したところ、品田医師はこれに対し、感染防止のための水性ペニシリン一〇万単位の投与と酸素三リットルの投与続行並びに保育器内の温度を三四度C、湿度を八〇パーセントとするように指示した。

なお、品田医師は、以後原則として、馬場一雄の示した基準である別紙第1表に従つて保育器内の温度、湿度の設定を指示し、その後一日二回の回診時に右指示が守られているか確認しており、異常であつたのは、看護記録の三月一二日の欄に三一・五度Cと記載されているときのみで、その他は指示どおりであつた。

(2) 一月三〇日午前六時ころの原告恵は脈拍一一八、呼吸数四〇、直腸温三二・五度Cとなり、体動激しく泣き声大で一般状態良好気味であつた。

同日午後八時三〇分ころ、品田医師は、初めて原告恵を診察し、翌三一日午後六時までの酸素三リットルの投与続行と、感染防止のため水性ペニシリン一〇万単位の投与を指示した。

同日午後〇時ころ、脈拍九七、呼吸数七〇、直腸温三三度C、異常呼吸なく、高声にて啼泣し、全身紅潮、四肢運動活発である。

同日午後一時ころ、水性ペニシリン一〇万単位を注射する。その後呼吸数が六〇を超えることもなく、全身紅潮、四肢運動活発で、啼泣大にて元気。

なお、同日における臨床検査成績は、総ビリルビン値二・〇mg/dl、直接ビリルビン値〇・五mg/dl、間接ビリルビン値一・五mg/dl、血糖値九五mg/dl、白血球六七〇〇/mm3、赤血球数四一七万/mm3、血色素量一五・六g/dlであつた。

(3) 一月三一日、体重一〇九〇グラム、脈拍八四〜一三八、呼吸数三四〜五二、直腸温三一・八〜三二・八度C。

同日午前八時三〇分ころ、品田医師が診察し、再度水性ペニシリン一〇万単位の注射と、同日午後六時で酸素を二リットルに減らすよう、また、同日午後八時から授乳を開始するよう指示する。両下肢冷感なるも、全身色良好。

同日午後六時から酸素投与を二リットルに減量し、授乳のためアトム管を挿入する。一般状態特に変わりなし。体動・プラス、啼泣大。

同日午後八時ころより鼻腔からミルク二リットルの授乳開始。嘔吐・マイナス、体動・プラス、チアノーゼ・マイナス。四肢冷感。啼泣・プラス。一般状態特変なし。

(4) 二月一日、体重一〇八〇グラム、脈拍九八〜一四〇、呼吸数四〇〜六八、直腸温三二・二〜三二・三度C。ミルク一八ミリリットル。体動・プラス、全身紅潮。一般状態に特変なし。

(5) 同月二日、体重一〇六〇グラム、脈拍九〇〜一二〇、呼吸数三〇〜六一、直腸温三二・三〜三二・九度C、ミルク二六ミリリットル。一般状態変わりなし。

(6) 同月三日、体重一〇八〇グラム、脈拍一〇〇〜一二〇、呼吸数三〇〜三九、直腸温三二・三〜三二・九度C、ミルク三六ミリリットル。一般状態変わりなし。

(7) 同月四日、体重一〇九〇グラム、脈拍一〇四〜一四二、呼吸数四一〜五四、直腸温三二・二〜三二・八度C、ミルク五二ミリリットル。一般状態変わりなし。

(8) 同月五日、体重一〇九〇グラム、脈拍一一〇〜一三六、呼吸数三八〜五六、直腸温三三・二〜三三・五度C、ミルク六八ミリリットル。一般状態変わりなし。

(9) 同月六日、体重一一〇〇グラム、脈拍数一〇六〜一二〇、呼吸数三〇〜五〇、直腸温三二・七〜三三・九度C、ミルク八四ミリリットル。

(10) 同月七日、体重一一二五グラム、脈拍一〇六〜一五八、呼吸数三六〜六六、直腸温三一・八〜三二・八度C、ミルク九六ミリリットル。未明に全身冷感、体温下降気味。日中は全身紅潮。特変なし。

(11) 同月八日、体重一一五〇グラム、脈拍一三二〜一四四、呼吸数四六〜五〇(これに反する乙B第八号証の記載は誤記と認める。)、直腸温三二・三〜三三・〇度C、ミルク一〇〇ミリリットル。一般状態変わりなし。

(12) 同月九日、体重一一五〇グラム、脈拍一〇八〜一二六、呼吸数五二〜六〇、直腸温三二・四〜三三・六度C、ミルク一一二ミリリットル。一般状態変わりなし。

(13) 同月一〇日、体重一一五〇グラム、脈拍一一二〜一五〇、呼吸数四八〜六四、直腸温三三・二〜三四・五度C、ミルク一一六ミリリットル。特変なし。

(14) 同月一一日、体重一一五五グラム、脈拍一〇八〜一三〇、呼吸数三二〜五四、直腸温三三・〇〜三四・〇度C、ミルク一二八ミリリットル。午前一〇時胆汁様嘔吐中等量、全身紅潮なるも体動、啼泣弱い。

(15) 同月一二日、体重一一五〇グラム、脈拍一〇〇〜一一六、呼吸数四〇〜四八、直腸温三二・七〜三四・一度C、ミルク一二八ミリリットル。夜溢乳軽度。他は特変なし。

(16) 同月一三日、体重一一四〇グラム、脈拍一〇〇〜一三八(これに反する乙B第八号証の記載は誤記と認める。)、呼吸数四〇〜四九、直腸温三二・八〜三四・二度C、ミルク一二八ミリリットル。全身冷感なるも特変なし。

(17) 同月一四日、体重一一四〇グラム、脈拍一一四〜一三六、呼吸数四〇〜五六、直腸温三二・五〜三四・七度C、ミルク一三二ミリリットル。啼泣弱く、体動緩慢。全身冷感。

(18) 同月一五日、体重一一四〇グラム、脈拍一一〇〜一三二、呼吸数三六〜五五、直腸温三三・八〜三四・九度C、ミルク一四四ミリリットル。一般状態変わりなし。

(19) 同月一六日、体重一一三五グラム、脈拍一〇四〜一三八、呼吸数四〇〜六二、直腸温三三・五〜三五・〇度C、ミルク一四八ミリリットル。一般状態変わりなし。

(20) 同月一七日、体重一一二〇グラム、脈拍一一六〜一二六、呼吸数三二〜六〇、直腸温三三・五〜三四・四度C、ミルク一六〇ミリリットル。あまり体動なく、元気なし。要注意。午前二時ミルク注入時口から少し嘔吐、午前五時ミルク注入中鼻より少し嘔吐、午前六時軽度下肢冷感、くしやみ、鼻汁少々。

(21) 同月一八日、体重一一三〇グラム、脈拍一二〇〜一三二、呼吸数四八〜六〇、直腸温三四・二〜三五・五度C、ミルク一五五ミリリットル。全身色すぐれず啼泣弱い。体動緩慢、午後七時四〇分ミルク注入時鼻より少し嘔吐。体温上昇ぎみ、呼吸状態、一般状態は変わりなし。

(22) 同月一九日、体重一一二〇グラム、脈拍一一二〜一五四、呼吸数三六〜五八、直腸温三五・〇〜三六・五度C、ミルク一六〇ミリリットル。特変なし。

(23) 同月二〇日、体重一一二〇グラム、脈拍一二二〜一四四、呼吸数四七〜六〇、直腸温三五・〇〜三五・六度C、ミルク一六〇ミリリットル。あまり元気がないが変わりなし。

(24) 同月二一日、体重一一一〇グラム、脈拍一二八〜一五四、呼吸数三八〜四八、直腸温三三・五〜三五・四度C、ミルク一六六ミリリットル。全身色不良だが特変なし。

(25) 同月二二日、体重一一三〇グリム、脈拍一二〇〜一四〇、呼吸数三八〜五三、直腸温三三・〇〜三四・八度C、ミルク一七六ミリリットル。一般状態変わらず、元気よし。鼻汁あり。

(26) 同月二三日、体重一一五〇グラム、脈拍一二四〜一三二、呼吸数四〇〜四八、直腸温三四・六〜三五・四度C、ミルク一七六ミリリットル。元気なし、鼻汁あり、体動緩慢。

(27) 同月二四日、体重一一六〇グラム、脈拍一二四〜一四〇、呼吸数四二〜六五、直腸温三五・〇〜三六・二度C、ミルク一七六ミリリットル。鼻汁多いが特変なし。

(28) 同月二五日、体重一一五〇グラム、脈拍一四六〜一五二、呼吸数五〇〜六三、直腸温三五・八〜三六・〇度C、ミルク一七六ミリリットル。鼻汁あり、全身色不良なるも特変なし。

(29) 同月二六日、体重一一七〇グラム、脈拍一二二〜一四八、呼吸数四二〜六〇、直腸温三六・〇〜三六・六度C、ミルク一七六ミリリットル。鼻汁あり。右耳より鼻汁様滲出物あるも、他は特変なし。

(30) 同月二七日、体重一一九〇グラム、脈拍一二〇〜一六八、呼吸数四四〜六六、直腸温三五・八〜三六・三度C、ミルク一七六ミリリットル。一般状態変わりなし。時折右の耳より膿汁あり。

(31) 同月二八日、体重一二一〇グラム、脈拍一三二〜一五〇、呼吸数四四〜六〇、直腸温三五・二〜三六・三度C、ミルク一八六ミリリットル、耳鼻より膿汁様分泌物あるも、一般状態変わりなし。

(32) 三月一日、体重一二一〇グラム、脈拍一三〇〜一五六、呼吸数四六〜六七、直腸温三五・〇〜三五・四度C。以後、三日までは呼吸数が六〇を超えることもなく、一般状態変わりなし。

(33) 同月四日、体重一二五〇グラム、脈拍一四〇〜一六六、呼吸数四〇〜六四、直腸温三五・〇〜三五・八度C。以後、八日までは呼吸数が六〇を超えることもなく、一般状態変わりなし。

(34) 同月九日、体重一四一〇グラム、脈拍一五〇〜一五四、呼吸数四二〜六四、直腸温三五・八〜三六・〇度C、ミルク二二〇ミリリットル。一般状態変わりなし。品田医師は、翌一〇日午前九時で酸素の投与を中止することを決意した。

(35) 同月一〇日、午前九時で酸素の投与を中止する。体重一四三五グラム、脈拍一二四〜一五六、呼吸数五三〜六八、直腸温三五・五〜三六・四度C。四肢運動活発、一般状態変わりなし。

(36) 以後原告恵は、呼吸数が六〇を超えることは度々あつたものの(同月一五日に六一、一七日に六四、一八日に六六、一九日に七二、二一日に六五、二二日に六一、二五日に七〇、二六日に六六、二七日に六四、二九日に六四、四月三日に七〇という値がみられる。)、その他一般状態良好のまま経過し、体温、体重も順調に増加して四月三日には体重が二〇〇〇グラムを突破する。

(37) 四月一一日、体重二三〇〇グラム、保育器からコットに移し、アトム管を除去して、以後自力哺乳とする。一般状態良好。

(38) 同月二四日、退院。体重二八一〇グラム。病院からの電話により原告範子が迎えに行く。新生児室の看護婦からミルクの回数、量、入浴などにつき説明を受けるが、目に関する説明は受けなかつた。品田医師にも面会していない。

(39) 五月二二日定期検診。

(40) 原告恵は、同月二八日風邪のため旭川厚生病院において品田医師の診察を受けたが、目の診察はなされない。

(41) 原告範子は、日ごろ原告恵が目で物を追わない印象を持ち不自然に感じていたところ、テレビで未熟児網膜症についての知識を得て、気になりだす。

(42) 八月二一日、原告範子は、原告恵を旭川厚生病院に連れていく。未熟児網膜症との診断がなされたが、原告繁に対しては、「まだ模がかかつた状態なので二、三か月様子をみよう。」との説明がなされる。

(43) 同月三一日、北大病院眼科で受診する。両眼の眼球振盪がみられ、また、眼球萎縮が起こり、眼球がやや陥没している。前房形成不全があり、水晶体の後まで一面に白色の増殖物が覆う。網膜の変化は瘢痕期に入つており、健常網膜はみられない。両眼とも明暗不弁で視力は矯正不能の状態。両眼未熟児網膜症と診断され、「手遅れで治療は無理」と言われる。

以上の事実が認められる。

2  原告啓一朗の失明に至る経緯

(一)  請求原因3(二)の事実中、原告伊藤らと被告深川市の間においては、原告啓一朗が昭和五〇年四月一五日(以下、本項においては、昭和五〇年については月日のみをもつて表わす。)深川市立総合病院眼科で眼底検査を受けたこと、同原告が未熟児網膜症の治療のため滝本医師及び藤岡医師の紹介で同月一六日市立札幌病院に転医したことは、当事者間に争いがない。また、原告伊藤らと被告札幌市の間においては、原告啓一朗が四月一六日、深川市立総合病院に在院中に未熟児網膜症に罹患しており、同病院から市立札幌病院に転医したこと、同原告は、同日同病院眼科の実藤医師により眼底検査を受け、翌一七日両眼に冷凍凝固手術を受けたが無効であつたこと、同月二五日北大病院眼科に搬送され、同科の光凝固装置を使い実藤医師の手で両眼に光凝固手術を受けたこと、さらに五月二日同様にして右眼のみに光凝固手術を受けたが、未熟児網膜症の進行がとまらず、ついに失明するに至り、六月一七日市立札幌病院を退院したことは当事者間に争いがない。右事実に、〈証拠〉を総合すると、次の各事実を認めることができる。

(1) 原告啓一朗は、二月一五日午前二時一五分、深川市立総合病院において在胎二八週で出生した。生下時体重は一〇七〇グラムであり、チアノーゼはなく、アプガルスコアは八点位であつた。

滝本医師は、自宅にて原告啓一朗出生の報告を受け、酸素濃度三〇パーセントを目途として酸素を一分間あたり三リットル流すように指示をし、これに従つて同原告は直ちに保育器に移され、酸素三リットルの投与が開始された。当時同病院の新生児室の壁には保育器内至適温度表(クラウスとアナロフの「ケア・オブ・ザ・ハイリスク・ニューボーン」から滝本医師が翻訳し、写したもの)が貼つてあり、この表に従い、保育器内の温度、湿度を調節するよう指示されていた。この表のうち、原告啓一朗が該当する最低体重の部分を抜き出してまとめると、その内容は別紙第2表記載のとおりである。

同日午前三時ころ、安静、呼吸状態良好。

同日午前三時三十分ころ、直腸温三二・七度C、時々啼泣する。器内の酸素濃度が二五パーセントになる。

同日午前六時ころ、脈拍一二〇、呼吸数五〇、変わりなく、安静。

同日午前九時ころ、滝本医師初めて原告啓一朗を診察する。直腸温三三度C。

同日午後三時ころ、直腸温三三・一度C、脈拍一一〇、呼吸数四二。酸素濃度が三五パーセントを超えているとの連絡に、滝本医師は酸素流量を一分間二リットルに減らすよう指示する。

同日午後四時ころ、酸素濃度がなお高かつたので、滝本医師は酸素流量を更に一・五リットルに減らすよう指示する。

同日午後六時ころ、直腸温三二・〇度C、脈拍一二〇、呼吸数四八。細い声で啼泣するときあり。

以後特変なし、なお、この日いずれかの段階で、保育器内に湯タンポが入れられている。

(2) 同月一六日、直腸温三三・〇〜三三・五度C、脈拍一〇八〜一二〇、呼吸数四八。

同日午前九時ころ、滝本医師が診察する。一日を経過し、やや危険性が減つたとの判断の下に、酸素濃度を下げるため、流量を一分間一リットルとすること、チアノーゼが現れた場合には酸素濃度を四〇パーセントに上げること、栄養として五パーセントブドー糖液を三時間ごとに一ミリリットル注入を開始するよう指示する。

同日午前一一時三〇分ころ、栄養カテーテルを挿入し、右指示に従つた栄養注入開始(以降これは、同月一七日午前九時まで一ミリリットル、同日午後〇時から翌一八日午前九時まで二ミリリットルずつ、三時間ごとに注入された。)。

酸素濃度は、同月午前〇時から三〇パーセントであつたのが、同日午前一一時三〇分以降は二七パーセントとなる。一般状態特変なし。

(3) 同月一七日、直腸温三二・五〜三三・五度C、脈拍一〇八〜一二〇、呼吸数四八〜五二、酸素二七パーセント。特変なし。

(4) 同月一八日、直腸温三三・二〜三五・五度C、脈拍一二〇〜一二八、呼吸数四〇〜六〇。時々弱声にて啼泣、特変なし。

同日午前九時ころ、滝本医師診察する。酸素濃度を更に減らすため、流量を一分間〇・五リットルとするよう、そして、ミルク一回二ミリリットルを三時間おきに注入するよう指示する。同日午後〇時以降、酸素濃度は二四パーセントとなる。

(5) 同月一九日、直腸温三四・〇〜三五・三度C、脈拍一二〇〜一二八、呼吸数四八〜五〇、酸素濃度二四パーセント、ミルク計二二ミリリットル、時々啼泣、特変なし。

(6) 同月二〇日、体重九三〇グラム(乙C第七号証の同月一九日の欄に記載されているのは誤記と認める。)、直腸三四・〇〜三五・〇度C、脈拍一二〇〜一二八、呼吸数四八〜五六、ミルク計三〇ミリリットル。良く動いて元気。

(7) 同月二一日、直腸温三三・〇〜三四・〇度C、脈拍一二〇〜一三八、呼吸数四八〜五六、ミルク計四四ミリリットル。特変なし。

(8) 同月二二日、体重八八〇グラムとなり最低を記録、直腸温三三・〇〜三四・五度C、脈拍一二〇、呼吸数四八〜五〇、ミルク計六〇ミリリットル。滝本医師の指示により、酸素を午後〇時で止める。

(9) 同月二三日〜二八日、体重同月二四日に八九〇グラム、同月二八日には九四〇グラムに増加、直腸温三三・〇〜三四・五度C、脈拍一一八〜一三二、呼吸数四八〜七二(但し、六〇を超えたのは、同月二五日午前〇時に六六、同月二六日午後三時に七二、同月二七日午後三時に六六の三回)、ミルク一日計六四ミリリットルから一一八ミリリットルに増量。一般状態特変なし。

(10) 同年三月一日〜七日、体重同月七日には九七五グラムに増加、直腸温三四・〇〜三五・七度C、脈拍一二〇〜一四四、呼吸数五二〜六六(但し、六〇を超えたのは、同月六日午前〇時に六六、同月七日午後六時に六六の二回)、ミルク一日計一一四ミリリットルから一六〇ミリリットルに増量。

同月二日、午後〇時と三時の授乳時、少量吐乳。

同月三日、不規則な呼吸で体動もあまりみられず、元気なし。

その余は一般状態に特変なし。

(11) 同月八日〜一四日、体重同月一〇日に一〇二〇グラム、同月一二日には一〇五〇グラムに増加、直腸温三四・五〜三五・八度C、脈拍一二〇〜一四四、呼吸数五四〜六六(但し、六〇を超えたのは、同月一三日午後三時に六六の一回)、ミルク一日計一七四ミリリットルから一九〇ミリリットルに増量。一般状態に特変なし。

(12) 同月一五日〜二一日、体重同月二一日には一二一〇グラムに増加、直腸温三五・二〜三六・五度C、脈拍一二八〜一五〇、呼吸数四八〜六六(但し六〇を超えたのは、同月一七日午後六時に六六、同月二一日午後六時に六二の二回)、ミルク一日計一九二ミリリットルから二〇八ミリリットルに増量。一般状態変わりなし。なお、同月二一日の時点で器内温度三二度C。湿度八〇パーセント。

(13) 同月二二日〜二八日、体重同月二八日には一三四〇グラムに増加、直腸温三五・〇〜三六・四度C、脈拍一三八〜一五二、呼吸数五四〜六六(但し、六〇を超えたのは、同月二五日午後三時に六六、同月二七日午前〇時に六二、同日午後三時に六二の三回)、ミルク一日計二〇八ミリリットルから二四〇ミリリットルに増量。一般状態変わりなし、体動やや活発になる。

(14) 同月二九日〜四月四日、体重四月四日には一五三〇グラムに増加、直腸温三五・四〜三六・五度C、脈拍一三八〜一五〇、呼吸数五四〜六六(但し、六〇を超えたのは、三月三一日午後三時に六六、四月二日午後三時に六六の二回)、ミルク一日計二五八ミリリットルから二八〇ミリリットルに増量。なお、四月四日午後〇時から経口哺乳を開始する。一般状態変わりなし。

(15) 同月五日〜一一日、体重同月一〇日には一七二〇グラムに増加、直腸温三五・八〜三七度C、脈拍一二四〜一五〇、呼吸数四八〜六六(但し、六〇を超えたのは、四月七日午後三時に六六の一回)、ミルク一日計二九五ミリリットルから四〇〇ミリリットルに増量。一般状態特変なし。

(16) 同月一二日〜一四日、体重同月一四日には一八二〇グラムに増加、直腸温三六・四〜三六・九度C、脈拍一三二〜一四四、呼吸数五〇〜六〇、ミルク一日計三九〇ミリリットルから四三〇ミリリットルに増量。一般状態特変なし。

(17) 同月一五日(生後五九日目)、体重一八八〇グラム、直腸温三六・三〜三七・三度C、脈拍一四四〜一五〇、呼吸数五四〜六〇、ミルク一日計四五〇ミリリットル。一般状態変わりなし。

同日午前九時ころ、滝本医師、眼底検査を指示する。

同日午前一一時ころ、藤岡医師は、原告啓一朗を保育器外に出し、所要時間一五分ほどかけて眼底検査をする。左右とも、後極部の静脈が充脹したように太くなり、動脈も非常に迂曲している。乳頭、黄斑部に新生血管が見られ、右眼網膜の周辺部と内側との間には境界線があつて、その外側は典型的な無血管帯になつている。また、左眼の黄斑部付近には少し出血を伴つた部分があつた。

同日午後四時ころ、藤岡医師は市立札幌病院の実藤医師に電話をし、「未熟児網膜症の発症と思われる患者がいる。活動期の症例と思われるが、近々開業するので経過が見られない。全身状態があまりよくないが、引きとつてほしい。」旨依頼する。実藤医師は、同病院の未熟児センターに入院が可能であることを確認したうえ、転院を了解する。

そこで、藤岡医師は滝本医師に対し、原告啓一朗が未熟児網膜症にかかつているが、割合初期の段階であろうと思われる旨及び市立札幌病院の実藤医師が冷凍凝固法をやつている旨を話し、同病院への転医を助言する。

滝本医師はこれを受け入れ、原告啓一朗を市立札幌病院に転医させることとし、両親を呼んで事情を説明する。

同日午後五時ころ、滝本医師の指示により、原告啓一朗を保育器からコットへ移床する。

(18) 同月一六日午前六時ころ、直腸温三七・〇度C、脈拍一四四、呼吸数六〇。一般状態変わりなし。

同日午前八時一五分ころ、原告啓一朗は両親に連れられて転医する。原告昭美は、滝本医師から「車だと排気ガスでよくないから、汽車で連れて行きなさい。外を歩いてもかまわない。」との指示を受け、その際、原告昭美が不安に思い、看護婦をつけてもらうか、救急車で運んでもらうかできないか頼むが、断わられ、結局原告昭美が抱いて、電車で連れて行く。

市立札幌病院へ転医、実藤医師が直ちに眼底検査を行なつたところ、両眼とも全周にわたる無血管帯があり、後極部血管は迂曲怒脹、境界線をこえて血管新生が見られ、左眼については乳頭近くで出血し、両眼とも部分的に滲出性剥離を生じていた。また、右眼は左眼に比べて活動性が少なく、やや消退期にあると感じられた。実藤医師は、剥離があることから、Owensによる分類の3期の終わりから4期に入る状態と判断し、直ちに治療を必要と認めて入院させる。入院時、原告啓一朗は、全身あかのため、沐浴させたところ、元気に啼泣した。体重一八八〇グラム、直腸温三七・七度C、呼吸数四八で眼、鼻、末端にチアノーゼあり。不整、陥没呼吸あり、黄疸あり。インキュベーターに収容。

なお、このとき原告昭美は、滝本医師、藤岡医師から以下の内容の実藤医師宛の紹介状を預り、持参している。

「昨日お電話したクランケです。グレードとしては割合初期と思いますし、左眼の方が少し強いようですが、よろしくお願い申しあげます。」(藤岡医師)

「生後六〇日目、哺乳力もつき、体温調節も成熟しましたので、当院の藤岡医師に眼底をみてもらいましたところ、網膜症ありと診断いただきました。先生のところのクライヨで治療するのがベストであろうとの助言をいただき……御高診いただきたくお願い申しあげます。」「現在保育器内温度三一・五度Cで保育中(湿度七〇パーセント)ですが、貴院にてもできれば保育器内が安全かと存じますが、普通のベビーのように着物を着せてややあたたかめにしておけば、保育器外においても体温調節は十分かと存じます。」(滝本医師)

実藤医師は、右紹介状を読んだが、原告啓一朗の診断、冷凍凝固術の決定は、右内容にとらわれることなく、自己の判断で行なつたものである。

(19) 同月一七日、実藤医師は原告啓一朗に対し、両眼に冷凍凝固を実施。全周にわたり、無血管帯とこれより後極部にかかるあたりを凝固する。マイナス六〇度Cで、一個につき六秒程度。眼底を直接見て、網膜面に現われる白い凍結斑を確認しながら行なう。同月二二日まで経過観察とする。

なお、同一七日から二一日までの一般状態は、皮膚色不良、鼻周囲にチアノーゼあり、呼吸浅く、速迫気味、軽度の陥没呼吸あり。

(20) 同月二二日、眼底検査、両眼とも境界線から周辺部にかけて新生血管が増殖。無血管帯が広く、後極部の血管迂曲怒脹、左眼の剥離更に進む。

(21) 同月二五日、実藤医師、北海道大学の光凝固装置(東独ツアイス製)を用いて、光凝固手術を実施する。この日の眼底検査では、両眼とも後極部の血管が迂曲怒脹し、左眼のみでなく、右眼にも剥離を認め、左眼の剥離は強く、後極部にも進行している。副腎皮質ホルモン(ステロイド)の投与を始める。

(22) 同月二八日、眼底検査。凝固斑がほとんど出現せず、ますます増悪。Owensの4期と判断。ステロイド投与を続行する。

(23) 同月三〇日、眼底検査。凝固斑がわずかにみられる。右眼は血管組織が境界線付近から硝子体中へ増殖している。後極の血管はやや消退期に入り、網膜牽引。左眼は後極まで剥離。

(24) 五月二日、実藤医師は、北大で、前同様、ただし右眼のみ光凝固手術を実施する。この時右眼は、出血及び滲出傾向あり。後極の網膜は、牽引されている模様である。凝固斑出現せず。左眼は全剥離に近く、光凝固ができない。

(25) 同月六日、眼底検査。右眼の滲出が更に進み、後極もますます牽引。硝子体中への増殖も進む。左眼も更に剥離進行。

(26) 同月一三日、眼底検査。左眼全剥離。

(27) 同月二〇日、眼底検査。両眼とも全剥離。左右とも明暗不弁、矯正不能で失明。

以上の各事実が認められる。

三  未熟児網膜症について

請求原因4の事実中、本症が未熟児の水晶体後部に網膜血管の異常増殖を生じ、最悪の場合には、網膜全剥離による失明ないし強度の視力障害を残すに至る眼の疾患であること及び厚生省研究班報告の存在とその内容については、当事者間に争いがなく、更に、原告らと被告厚生連及び同深川市との間においては、本症がもともと自然治癒傾向の強い疾病であることについても争いがない。そして右事実に、〈証拠〉を総合すると、以下の事実が認められ、この認定を左右する証拠はない。

1  本症の歴史的背景

未熟児網膜症は、一九四二年にTerryが未熟児の水晶体の後部に灰白色膜状組織がある失明例を報告し、一九四四年にこれをRetrolental fibroplasia(水晶体後部線維増殖症)と名付けたのに始まる。その本態は、当初は先天的異常に基づく胎生血管の遺残、過形成と考えられていたが、一九四九年、Owensなどにより未熟児に主として起こる後天性の眼疾患であることが明らかにされた。これに伴い、その名称も、SorsbyによつてRetinopathy of prematurity(未熟児網膜症)が適切であるとされ、我が国でも本症末期の瘢痕期の五度のみの状態を指す水晶体後部増殖症なる名称は適当でなく、未熟児網膜症なる名称に統一されるに至つた。

本症は、一九四〇年から一九五〇年ころにかけて主に米国において多発し、乳幼児失明の大きな原因となつた。米国においては、当初本症の原因として、ビタミンE欠乏説、ビタミンA欠乏説、酸素欠乏説、輸血、光などが関係するという説など多くの因子があげられたが、一九五一年に、Campbellが初めて酸素投与量の多い施設に本症の発生頻度が高いことを報告して以来、酸素過剰説はPatz, Kinseyら多くの研究者によつて確認された。これを受けて、一九五四年には酸素使用の制限が行なわれ、本症は劇的な減少をみるに至り、その後本症の報告は文献から姿を消し、一旦は過去の疾患として顧みられなくなつた。

しかし、一九六〇年、AveryとOppenheimerが呼吸窮迫症候群による死亡は、酸素を自由に使用していた時代と比べ、酸素を厳しく制限するようになつて明らかに増加していることを報告し、また、McDonaldが在胎三一週以下の小さい未熟児で無呼吸発作を反復していた症例では、未熟児網膜症と脳性まひとの発生率に逆の関係があり、酸素投与期間の長いものには未熟児網膜症が多いが脳性まひが少ないことを報告して以来、呼吸障害のある未熟児には高濃度の酸素療法が行なわれるようになり、再び未熟児網膜症発生の増加が問題となつてきた。

我が国では米国で本症が多発したころには未熟児保育施設は少なく、保育器も未発達であり、未熟児を高濃度の酸素環境で保育することがほとんどなかつたため、本症の発生はまれで、本症に対する関心も薄かつた。文献としては、昭和二四年ころから、本症の紹介、瘢痕期の症例報告が散見され、また、本症予防のため酸素投与の制限の必要性につき説くものが度々見られたが、本症についての知見が一般の小児科医、眼科医に浸透し、関心を待たれ始めたのは、昭和三九年ころから慶応義塾大学眼科学教室の植村恭夫らによつて、本症が我が国においても未熟児に対する酸素療法の普及に伴い増加してきていること、本症の発生が酸素療法と重要な関連を有すること、酸素濃度を四〇パーセント以下におさえていても本症が発症しうることなどが度々指摘、警告されてからであつた。

また、昭和四三年、天理病院の永田誠が本症の治療法として光凝固を行なつたことを発表してから、これに触発されて、本症に対する光凝固の追試例が散見されるようになり、これに伴い本症の原因、予防法、治療法などの研究も進展していつた。一方、未熟児医療の進歩によつて、従来救命しえなかつた超未熟児の救命が可能となり、またそれまでの分類にはあてはまらない、本症の急激進行型の症例も発見されて、光凝固の適期等の議論をめぐつて、病態の追及、治療法の効果判定につき意見統一の必要が生じた。そこで、厚生省は昭和四九年、本症に関する、我が国の主だつた研究者による研究班を組織してその意思統一を試み、昭和五〇年には、厚生省特別研究費補助金昭和四九年度研究班報告「末熟児網膜症の診断および治療基準に関する研究」(主任研究者植村恭夫、分担研究者塚原勇外一〇名)をまとめさせた。現在はこの研究班報告を踏まえて更に研究が進められ、その内容に検証、修正が重ねられているところである。

2  本症の臨床経過

(一)  未熟児網膜症の臨床所見が多種多様であることは、未熟児網膜症研究者たちの一様に指摘しているところである。

従来、我が国においては、主にOwensの分類が臨床的に用いられていた。これによれば、本症の臨床経過は、以下のとおりである。

(1) 活動期

1期(血管期) 網膜血管の迂曲怒脹をもつて特徴づけられる。

2期(網膜期) 網膜周辺に限局性灰白色の浮腫が出現し、その領域には竹かご状の血管新生がみられ、出血、硝子体混濁が出現する。

3期(初期増殖期) 限局性の網膜隆起部の血管から血管発芽が起こり、血管新生の成長が増殖性網膜炎の形で硝子体内へ突出し、周辺網膜に限局性の網膜剥離を起こす。

4期(中等度増殖期)

5期(高度増殖期) 本症の最も活動的な時期で、網膜全剥離を起こしたり、ときには眼内に大量の出血を生じ硝子体腔をみたすものもある。

(2) 回復期

(3) 瘢痕期

瘢痕の程度に応じて、一度から五度に分類される。

一度 眼底蒼白、血管狭細、軽度の色素沈着などを示す小変化

二度(乳頭変形) 乳頭は、しばしば垂直方向に廷長し、あるいは腎臓型を示したり、網膜血管も耳側に牽引され、蒼白のこともあり、黄斑部の外方偏位を伴うことが多い。

三度 網膜の皺襞が形成される。

四度(不完全水晶体後部組織塊形成)網膜剥離、水晶体後部に組織塊が形成される。

五度(完全水晶体後部組織塊形成)水晶体後方全体に網膜を含む線維組織が充満する。

(二)  しかし、昭和四六年ころから、ようやく本症の病態についての研究も進み、前記永田、植村のほか、九州大学医学部眼科教室の大島健司らによつてそれまでの分類に種々修正が加えられ、光凝固法の適用時期等をめぐつてさまざまな議論がなされるに至つた。

一方、光学器械の進歩や眼底検査法、診断技術の進歩により、従来のOwensによる臨床経過をたどらないで急激に進行する激症型の存在も確認されるようになつた。すなわち、一九五三年Szewczykは、低酸素症ショック後、わずか二四時間で大剥離を来した例を報告していたが、我が国でも、昭和四七年四月及び六月、植村が、「小児科」一三巻四号「未熟児網膜症の予後」及び「小児科臨床」二五巻六号「未熟児網膜症」で、発症後二、三日で滲出性の大剥離を起こした症例をrush type(急激型)と呼び報告した。

また、昭和四九年二月、大島らは、「臨床眼科」二八巻二号に掲載した「急激に進行増悪する未熟児網膜症に対する光凝固法」と題する論文において、「急激に進行増悪する未熟児網膜症」として、通常のものとは臨床像が異なり、網膜血管の強い怒脹蛇行が起こるとほとんど同時にほぼ全周の網膜血管帯に強い滲出性剥離が起こる症例を報告し、このような症状の場合は自然治癒は望めず従来どおりの光凝固法を行なつても失明を防止するのは困難であり、治療の時期選定のために早期に診断すべきであるとの見解を述べた。

(三)  そこで、昭和四九年、厚生省で組織された前記研究班においては、各研究者が持ち寄つた本症例のスライドに基づいて、何期と判定するか研究者間の意思統一からはじめて従来の分類法を検討したうえ、以下のような診断基準を発表した。

(1) 活動期の診断基準

臨床経過、予後の点より、本症をⅠ型、Ⅱ型に分類する。

Ⅰ型は、主として耳側周辺に、増殖性変化を起こし、検眼鏡的に血管新生、境界線形成、硝子体内に滲出、増殖性変化を示し、牽引性剥離と段階的に進行する比較的緩徐な経過をとるものであり、自然治癒傾向の強い型のものである。

Ⅱ型は、主として極小低出生体重児にみられ、未熟性の強い眼に発症し、血管新生が後極よりに耳側のみならず鼻側にも出現し、それより周辺側の無血管帯が広いものであるが、ヘイジイメディアのため、無血管帯が不明瞭なことも多い。後極部の血管の迂曲、怒脹も初期よりみられる。Ⅰ型と異なり、段階的な進行経過をとることが少なく、強い滲出傾向を伴い、比較的速い経過で網膜剥離を起こすことが多く、自然治癒的傾向の少ない予後不良の型のものをいう。

(2) 各型の臨床経過分類

Ⅰ型の臨床経過分類は、次のとおりである。

1期(血管新生期)周辺、ことに耳側周辺部に血管新生が出現し、それより周辺部は無血管帯領域で蒼白にみえる。後極部には変化がないか、軽度の血管の迂曲怒脹を認める。

2期(境界線形成期) 周辺、ことに耳側周辺部に血管新生領域とそれより周辺の無血管帯領域の境界部に境界線が明瞭に認められる。後極部には、血管の迂曲怒脹を認める。

3期(硝子体内滲出と増殖期) 硝子体内へ滲出と血管及びその支持組織の増殖が検眼鏡的に認められる時期であり、後極部にも、血管の迂曲怒脹を認める。硝子体出血を認めることもある。

4期(網膜剥離期) 明らかな牽引性網膜剥離の認められるものを網膜剥離期とし、耳側の限局性剥離から全周剥離まで、範囲にかかわらず明らかな牽引剥離はこの期に含まれる。

Ⅱ型はⅠ型のような段階的経過をとることは少なく、比較的急激に網剥離へと進む。

右Ⅰ型、Ⅱ型のほかに、極めて少数であるが、Ⅰ型、Ⅱ型の混合型ともいえる型がある。

(3) 瘢痕期の分類

(一度) 眼底後極部には著変がなく、周辺部に軽度の瘢痕性変化(色素沈着、網脈絡膜萎縮など)のみられるもので、視力は、正常のものが大部分である。

(二度) 牽引乳頭を示すもので、網膜血管の耳側への牽引、黄斑部外方偏位、色素沈着、周辺部の不透明な白色組織塊などの所見を示す。黄斑部が健全な場合は、視力は良好であるが、黄斑に病変が及んでいる場合は、種々の程度の視力障害を示す。日常生活は視覚を利用して行うことが可能である。

(三度) 網膜襞形成を示すもので、鎌状剥離に類似し、隆起した網膜と器質化した硝子体膜が癒合し、これに血管がとりこまれ、襞を形成し周辺に向かつて走り、周辺部の白色組織塊につながる。視力は〇・一以下で、弱視または盲教育の対象となる。

(四度) 水晶体後部に白色の組織塊が瞳孔領からみられるもので、視力障害は最も高度であり、盲教育の対象となる。

なお、植村によれば、当時はⅡ型を経験していない者が多く、倒像眼底写真が出て来たのも昭和四七、八年ころであつて、臨床分類についての意思統一がようやくはかられるようになつたばかりであつたという。右研究班報告は、その後部分的に修正が加えられてはいるものの、本症の診断、治療に関する統一基準として、その後広く一般に浸透している。

(四)  しかし、この分類もⅡ型の診断基準についてなお曖昧なままにとどめており、その一応の臨床経過が明らかにされたのは、昭和五一年一月、国立小児病院眼科の森実秀子が「日本眼科学会雑誌」八〇巻一号に、「未熟児網膜症第Ⅱ型の初期像及び臨床経過について」と題する論文を発表してからであつた。これによれば、Ⅱ型の眼底像の確証として、次の三点があげられる。

① 網膜血管が後極部から四象現すべての方向に向かい著しい迂曲怒脹を示す。

② 血管帯と無血管帯との境界部に新生血管が叢状をなし一周し、また多数の吻合形成が認められ、所々に出血斑が存在する。

③ これら病変の発現部位が極めて類型的であり、鼻側は乳頭から二〜三乳頭径、耳側は黄斑部外輪付近の範囲にある。

そしてその後の研究班の研究によつて、昭和五七年に前記研究班報告も以下の点が改訂された。

(1) Ⅱ型の診断基準として、以下の点を補足する。

赤道部より後極側で全周にわたり未発達の血管尖端領域に異常吻合、走行異常、出血などがみられる。それより周辺には広い無血管領域が存する。網膜血管は血管帯の全域にわたり、著明な蛇行怒脹を示す。進行とともに網膜血管の蛇行怒脹はますます著明となり、出血、滲出性変化が強く起こり、Ⅰ型のような緩徐な段階的変化をとることなく、急速に網膜剥離へと進む。境界線形成はⅠ型のごとく明瞭なものは作らないか、あるいは進行が急速なこと、ヘイジイメディアのため確認できないことが少なくない。網膜剥離はⅠ型が主として牽引性剥離であるのに対し、Ⅱ型は滲出性剥離が主体である。

(2) 活動期三期と瘢痕期二度をそれぞれ三段階に細分し、瘢痕期一度を広くとる。

(3) 従来の混合型を中間型とする。

3  本症発生要因と発生機序

本症の発生は未熟児、特に生下時体重一五〇〇グラム以下、在胎三二週以下の極小未熟児に発生率が高く、重症例も多い。反面、本症には自然緩解例も多く、ことにⅠ型では約八〇ないし九〇パーセントが自然に治癒すると言われる。

本症の発生原因について、かつては水溶性ビタミン、鉄剤、粉乳、輸血などが関係するとする説、ビタミンE欠乏説、ウイルス説など諸説が唱えられたが、現在では、本症は発育途上の網膜血管に起こる血管性疾患であつて、網膜、特にその血管の未熟性が基盤となり、動脈血酸素分圧(PaO2)の絶対的、比較的上昇により発症とすると考えられている。網膜血管の発育は、鼻側で胎生八か月、耳側では胎生九か月になつてやつと完成して、鋸歯状縁に達するものであり、在胎三〇週程度では未発育である。そして、この未熟な血管は、酸素の過剰にも不足にも敏感に反応するため、高濃度の酸素環境下に置かれた未熟児の網膜は、PaO2の上昇による局所の酸素の作用でその毛細血管が収縮し、血流の減少を招いてついにその先端部を閉塞させる。(酸素による血管閉塞の機序は未だ議論の的であり、酸素の内皮細胞に対する直接の毒性効果によるのか、あるいは血管収縮、閉塞による循環障害の結果によつて起こるのかも未だ研究段階である。)この時期には、PaO2の上昇のため、閉塞部よりも周辺の無血管領域の網膜は、脈絡膜から酸素の供給を受けているが、続いて酸素供給の停止によつて、無血管帯の網膜は低酸素(anoxia)となり、これを補うため、異常な血管新生、硝子体内への血管侵入、後極部血管の怒脹、蛇行が起こる。それ以外にも直接あるいは間接的に本症の発生、進行に関与する因子の存在を否定することはできず、発生機序についてはまだ不明の点が多い。

なお、酸素を全く投与していない未熟児や成熟児にも本症の発症することが指摘されており、その機序も未だ不明であるが、母胎内の酸素濃度から空気中の酸素濃度への変化が一つの誘因となつているとする考えもあり、いずれにせよ酸素が本症発生の重大な誘因となつていることは異論を見ない。

四  原告恵及び同啓一朗の失明原因

前記認定の、原告らの失明に至る経緯及び未熟児網膜症の臨床経過、発症要因に関する現在の知見を総合すると、原告らは、いずれもその網膜の未熟性を素因とし、酸素の投与を誘因として、末熟児網膜症に罹患し、その結果失明に至つたものと認めるのが相当であり、これを覆すに足りる証拠は存しない。

また、右の事実に鑑定証人植村恭夫の証言及び同人の鑑定の結果を総合すると、原告啓一朗の昭和五〇年四月一六日の眼底所見及びその後の臨床経過は、まさしく前記Ⅱ型の特徴に合致するものと認められるから、同原告の症例はⅡ型であつたと認められ、これを覆すに足りる証拠はない。

五  被告らに要求される医療水準

1  医師の過失の判断基準

医師は、その職責からして、自己の診察する患者の生命、身体の管理について万全の注意を払うべき義務を負うものであつて、今日の日進月歩する医学界にあつては、その進歩に遅れることがないよう、自己の専門とする診療科目はもとより、関連科目についても、日ごろから、専門誌の購読、学会への参加などを通じて、研さんを積むべきである。また、もし自ら担当している患者に、自己の専門に隣接する分野で重大なな疾病の発生が予想され、自らその予防や治療を行ないえない場合は、患者若しくはその保護者に対し、右疾病発症の危険性、疾病の内容、治療法等を説明し、転医をさせるなどして適切な診療を受けうる機会を与えなければならず、これを怠り、現に新たな医学的治療法の開発、普及がなされているのに、それについての知見を欠き、もつて、自己の患者に対し、かかる新治療法の適用ないし適用の機会を得させずに不良の結果を生じさせた場合は、その責任を負わざるをえない。

しかしながら、医療行為は、各種の医療制度や人的・物的制約のもとに、時々刻々複雑に変化する病理現象に対し、有限の知識、能力、時間をもつて対処するものであるから、その要求されるところも、当該医師の置かれている社会的、経済的、地理的な環境からの外在的な制約が当然存するうえ、日々進歩してやまぬ医学体系の中で、一般の医師に要求されるのは、常に新たに生成淘汰されるその先端水準ではなく、むしろ、経験科学的な検証に耐えることによつて確実な知識として臨床医学体系の中に定着した、その当時における医療水準に則つたものであれば足りると考えるべきである。したがつて、一部の先進研究者によつて実験的研究結果が学会、専門誌等で発表され、それが学問的診断、治療基準として提唱されていても、未だそれについての追試、検証が十分になされていないようなものについては、これを採用しなかつたからといつて、直ちに注意義務違反となるわけではない。

そこで、以下には、まず原告恵及び同啓一朗に本症の発症した昭和四八年及び昭和五〇年当時の、我が国における一般的医療水準について検討し、いかなる知見が確実な知識として当時の臨床医学体系の中に定着していたといえるのかを考察するとともに、当時被告らの病院の置かれていた社会的、経済的環境等につき検討し、具体的には、いかなる予防、治療義務を負つていたのかを考察する。

2  昭和四八年、五〇年当時の一般的医療水準

(一)  未熟児の全身管理について(酸素管理については後述)

〈中略〉

(4) 以上を総合すると、原告恵及び同啓一朗に本症の発症した昭和四八年及び五〇年当時の全身管理に関する一般的知見の大要は、おおむね次のような内容であつたと解するのが相当である。

① 未熟児養護の原則は、呼吸の確立、体温保持、感染防止、栄養、観察、おだやかに取り扱うことの六点である。

② 保育器内の温度は、一〇〇一ないし一二〇〇グラムの児の場合、三四ないし三五度C前後が適当であり、急激な加温や、児の体温と大きく温度差をつけるのは避けるべきである。

③ 湿度は、六〇ないし九〇パーセントが適当である。

④ 授乳については、飢餓期間を二日ないし三日程度もうけたうえ、初回は一回に三ミリリットル程度から開始するのが適当である。

(二)  酸素管理について

(1) 酸素管理の内容とその歴史的展開〈略〉

(2) 本件当時における酸素管理に関する一般的知見

右文献の内容を総合すると、昭和四八年ないし五〇年ころの文献から見た酸素管理に関する水準は、PaO2値の測定を奨励し、それが不可能な場合は、チアノーゼ等を基準として酸素投与の適否を決すべきであるとする、ワーレー・アンド・ガードナー法等が主流であると認められる。〈中略〉

(3) 以上を総合すると、昭和四八年ないし五〇年当時、未だPaO2値の測定は一般的とはいえず、まして、義務となつていたとまで認めることは到底できない。また、酸素の投与は必要最少限にとどめるべきであるという目標は一般化していたものの、その基準として、チアノーゼを指標とするワーレー・アンド・ガードナー法が、我が国の臨床実務家の間に一般的指針として確立していたとまでは認められず、したがつて、酸素投与につき、右のような厳格な基準を用いなかつたからといつて、診療契約上の義務違反があるとは言いえない。

(三)  眼底検査について

〈証拠〉を総合すると以下の事実が認められる。

(1) 我が国では、昭和三九年ころから、前記植村恭夫らによつてしばしば本症の発生、進行状況の把握のために眼底検査の必要性が説かれ、ことに光凝固手術が本症に適用されてから、その治療の前提として不可欠な検査方法であると指摘され、昭和四八ないし五〇年ころには、その必要性についての知見は一般化していた。なお、一時、本症の予防のため、酸素投与の適否を検眼鏡的にモニターする方法が主張されたこともあつたが、本件当時にはPaO2値と網膜血管径との間には相関関係が認められないことが判明し、本症の予防には役立たないことが明らかになつていた。

昭和五〇年当時の眼底検査に関する基準は、前記厚生省研究班報告にまとめられたように、一八〇〇グラム以下の低体重児、在胎期間では三四週以前のものを主体とし、生後満三週以降において、定期的に、一週一回眼底検査を施行し、三か月以降は隔週又は一か月に一回の頻度で六か月まで行なうのが適当であるというものであり、およそこのような内容として一般にも認識されていた。

(2) しかし、①眼底検査のために患児を押さえつけると、体力を消耗させ、時には呼吸障害の発作を引き起こす危険を伴い、また開眼器によつて結膜炎を起こす場合があること、②本症の発症しやすい一二〇〇グラム以下の未熟児では、生後一か月以上もヘイジイメディアが続き、眼底検査が満足にできないものが多いこと、③未熟児の眼底検査には、開瞼器として乳児用デマル鈎、ザウエルあるいはバンガーター乳児用開瞼器、検眼鏡として双眼倒像検眼鏡またはボンノスコープなどの器具が必要であること、④そして何よりも、眼底検査による本症の発見、正確な診断をするためには、多くの症例に遭遇する機会を与えられ、実際に訓練を積んでも、正常な眼底と本症活動期の鑑別の技術を修得するのに約一年間位を要し、その後の症状の進行を追跡して診断を下せるようになるには更に四ないし五年かかるという極めて高度の熟練を要するものであること等様々な困難な条件がある。

(3) このような事情から、未熟児の眼底検査が普及し始めたのは、昭和四七年ころであり、大学病院でも、定期的眼底検査を行なうようになつたのは、ようやく昭和四八年ころからであつて、昭和四七、八年ころには、未だほとんどの病院で眼底検査を行なつていない現状であつた。未熟児の眼底検査を慶応大学で研究員に教えるようになつたのも、昭和四八年六月ころより後である。

以上を総合すれば、本件の昭和四八ないし五〇年当時、眼底検査の必要性は十分認識されながらも、実質的な本症鑑別のための眼底検査を行なえる眼科医の数は全国的にも極めて少なく大多数の病院では、全く眼底検査を実施しないか、あるいは実質的鑑別の行ないえない状況にあつたものであり、したがつて、その必要性の認識の浸透とは裏腹に、一般臨床眼科医が有すべき具体的実施可能性のある診断法までには至つていなかつたものと言わざるをえない。

しかしながら、その必要性の認識は広く浸透し、先進的専門研究者のいる病院あるいは研究機関的病院など一部の病院では現に行ないうることが一般的知見であつたと認められるから、本症発症の危険性のある患児を扱つた臨床医としては、自ら眼底検査をなしえない場合にも、他の眼底検査の可能な病院を紹介し、あるいは少なくとも眼底検査が必要であることを説明する義務は存したと言わなければならない。

(四)  光凝固法について

(1) 本件当時までの光凝固法についての報告例

〈証拠〉によれば、以下の事実が認められる。

光凝固法とは、高エネルギーの光束を集光して、主としてその熱作用によつて、組織の蛋白質凝固を行なうもので、中心性網膜炎、網膜剥離とその関連疾患、網膜静脈閉塞症などに用いられていた治療法である。この光凝固法が未熟児網膜症の治療に有効であるとの発表がなされて以来、原告啓一朗が出生した昭和五〇年二月以前までに、その適否をめぐつて多くの報告がなされたが、その幾つかをとりあげて以下に概観する。

〈中略〉

以上が、昭和五〇年二月までに眼科、小児科、産科の各分野で本症に関して発表された医学文献を概観したものであるが、これらを総合すると、昭和四八年一月ないし昭和五〇年二月当時、眼科はもちろん、小児科の分野においても、本症について光凝固法という治療法が開発され、適切な時期にこれを施行すれば奏効するという追試例が多数あること、そのためには眼底検査の施行が必要であることは、一般的知見であつたと認めるのが相当である。

(2) 厚生省研究班報告の位置づけ

〈証拠〉を総合すると以下の事実が認められ、これを覆すに足りる証拠はない。

昭和五〇年、前記厚生省研究班報告では、「未熟児網膜症の治療には未解決の問題点がなお多く残されており、現段階で決定的な治療基準を示すことは極めて困難である。」としつつ、「進行性の本症活動期病変が適切な時期に行われた光凝固法あるいは冷凍凝固によつて治癒しうることが多くの研究者の経験から認められている。」として、光凝固法の適応等につき次のような指摘がなされた。「Ⅰ型は自然治癒傾向が強く2期までに治癒すると将来の視力に影響を及ぼすと考えられるような瘢痕を残さないので、3期において更に進行の徴候がみられるときに初めて治療が問題となる。但し、3期に入つたものでも自然治癒する可能性は少なくないので進行の徴候が明らかでないときは治療に慎重であるべきである。Ⅱ型は血管新生期から突然網膜剥離を起こしてくることが多いのでⅠ型のように進行段階を確認しようとすると治療時期を失うおそれがある。極小低体重児で未熟性の強い眼に起こるので、このような条件を備えた例では、綿密な眼底検査を可及的早期に行い、無血管領域が広く全周に及ぶ症例で血管新生と滲出性変化が起こり始め、後極部血管の迂曲怒脹が増強する徴候が見えた場合は直ちに治療を行うべきである。」

右研究報告が医学雑誌等に掲載されたのは、昭和五〇年八月に「日本の眼科」に掲載されたのが初めであつて、本件当時は未だ一般臨床医に対しては公表されていず、一般臨床医は、右研究報告に述べられているⅠ型、Ⅱ型の分類と、それぞれについての光凝固の適用基準について本件当時には知り得る状況になかつた。しかも、右研究報告は「Ⅰ型における治療は、今後光凝固治療例の視力予後や自然治癒例に見られる網膜剥離のごとき晩期合併症に関する長期観察結果が判明するまでは適応に問題が残つている。Ⅱ型においては、早期治療を要することに疑義はないが、治療適期の判定、治療方法、治療を行なう時の全身管理などについて今後検討の余地が残されている。」と問題点を指摘し、「上記の治療基準は現時点における未熟児網膜症研究班員の平均的治療方針であるが、これらの治療方針が真に妥当なものか否かについては更に今後の研究をまつて検討する必要がある。」として、その治療法がなお未熟児網膜症研究者にとつても検証途上にあり、未だ確立した治療法とまではいえないことを明らかにしている。

したがつて、前記認定のような一般的知見にもかかわらず、本件当時、光凝固法は、なお多くの問題をかかえた、研究途上の治療法であつたということができる。

(3) 本件以後の光凝固に対する評価〈略〉

(4) 裁判所における専門家の意見等〈略〉

(5) 光凝固法の普及度〈略〉

(6) 総括

以上を総合すると、未熟児網膜症の治療法としての光凝固法は、本件の発生した昭和四八年ないし昭和五〇年当時までに一部の先進的研究者により理論的に完成した治療法として発表され、奏効的追試例が相次いで報告され、文献上はその有効性が確立されたかのごとく紹介されていたものの、その実態としては、比較対照試験を行なうなどの学問的、客観的証明を欠き、未だ研究途上にあつたものと認めるのが相当である。光凝固によつて、Ⅰ型網膜症の諸病変が、劇的かつ早期に改善されることは現在も認められているところであり、これを経験した医師らが、比較対照試験を踏むことなく、直接普及段階に入つたのが、光凝固法の特色であり、普及段階に入つてから、Ⅱ型網膜症の報告、片眼凝固の症例報告を経て、真に治療を要する症例と自然治癒傾向の強い治療不必要症例との区別もつかぬまま、かなりの過剰診療が行なわれてしまつた疑いが指摘され、その効果には多くの疑問が提示されるに至つている。

昭和五〇年、厚生省研究班報告により初めて本症の分類、一応の診断、治療基準が示されたが、同報告によつても「これらの治療方針が真に妥当なものか否かについては更に今後の研究をまつて検討する必要がある。」とされているのであり、本件発生の時点では、光凝固は未だ適応、治療基準についても不明確な点の多い、研究途上のものであつたと言わざるをえない。

鑑定証人老川忠雄は、「論文には、未だ確実な検証を経ていない最先端の知識が書かれる。その後多くの検証を経て、一年ほどして嘘ということがわかることも多い。医療実務が変わつてゆくのはそれよりずつと遅く、一〇〇パーセント正しいと考えられたときにはじめて実行されてゆくのである。」旨証言しているが、まさしく、医療文献と医療実務とはかかる関係にあるものであつて、文献内容がそのまま医療水準であるとは言えない。

そして、現段階においても、一部の研究者によつてⅠ型のうち自然治癒傾向を示さない少数の重症例及びⅡ型には光凝固が有効であると主張されているが、これを万能とする者はなく、一方、多くの者は、これが有効とも無効とも決めかねつつ、効果判定は不明のままに緊急避難的に使用しているのが実情と認められる。してみると、それが治療法として実験研究の途上にあることを否定できない点では概ね一致しており、本件当時から現在を通じて、確実な知識として臨床医学体系の中に定着した治療法であつたことは到底言いえない。

(五)  冷凍凝固について

〈証拠〉を総合すると、以下の事実が認められる。

(1) 冷凍凝固は、我が国で昭和四六年はじめて東北大学の佐々木一之らによつて試みられ、同年三月、「小児科臨床」二四巻三号において「冷凍凝固手術法も有効と考える。」との追加意見が出された。そして、同年一一月には、名鉄病院眼科の田辺吉彦によつて、「現代医学」一九巻二号に「冷凍凝固については経験はないが、東北大の報告では有効とのことである。(光凝固の)熱が冷凍になつただけで、作用機序は同じであるから当然と思われる。」と紹介された。昭和四七年一月には、国立大村病院の本多繁昭が、「眼科臨床医報」六六巻一号に、「一〇例について光凝固又は凍結凝固をして、進行を停止させた。」と報告している。

(2) 昭和四七年三月、「臨床眼科」二六巻三号で、東北大学の山下由紀子が凍結凝固を行なつた八症例について報告し、瘢痕一ないし二度で治癒し、将来重篤な視力障害は残さないものと思われるとした。そして、条件として、マイナス六〇度C前後で六ないし八秒が適当であり、手術部位は、硝子体内へ血管が著明に侵入している部分を凝固すれば十分であるとした。そして、冷凍凝固は光凝固よりも凝固瘢痕が大きいが、光凝固より網膜の浮腫がかなり強い場合でも凝固可能であり、装置及び手技も簡易であつて、今後さらに広く実施される価値があると述べている。

(3) 昭和五〇年には、前記厚生省研究報告において、「冷凍凝固法は、光凝固法と同様、本症を治癒させうることが多くの研究者の経験から認められている。」と評価されている。

(4) 昭和五〇年八月、熊本大学の吉住真外二名は、「日本眼科紀要」二六巻八号に七例について冷凍凝固を行なつた症例を報告し、「冷凍凝固は、操作の面でも光凝固より簡便かつ安全で、光凝固以上の効果を得ている。双眼倒像鏡を用いて、術者自ら眼底を直視下に観察しながら行なえば、凝固の過不足、位置誤認は起こらない。」として、冷凍凝固の利点と欠点につき以下のように述べている。

(利点)

① 光凝固の効果の及ばない強い浮腫及び剥離の起こつているものにも有効である。

② 本症の発症する周辺部眼底の凝固に適している。

③ 硝子体中にヘイジイ・メディアがあり、光凝固が不可能な例にも有効である。

④ 黄斑部を凝固するおそれがない。

⑤ 光凝固より広い面積を凝固できる。

⑥ 広範囲を一度に凝固できるので、手術時間を短縮できる。

(欠点)

① 双眼倒像鏡に熟練していなければならない。

② 結膜円蓋部より後方へは切開しないと届かない。

③ 結膜や眼瞼に一過性の浮腫が起こる。

(5) 植村恭夫は、昭和五六年一月、前記(四)(4)③の証言の中で次のように述べている。

病変が周辺にあるような場合は、光凝固が届きにくいので、冷凍凝固でやつた方がよい。奏効機序も光凝固とさほど差がない。但し、凝固斑の大きさがあとからわかるのが難点である。まだ行なわれていることは行なわれているが、その有効性は光凝固同様立証されておらず、光凝固とどちらがよいかという結論もついていない。

(6) また、昭和五七年七月、植村恭夫は、本件の鑑定証人として、「冷凍凝固も未だ有効性は立証されていないが、アメリカ、カナダ、イスラエルなどでは光凝固よりむしろ冷凍凝固の方が好ましいとされている。どちらがファーストチョイスとは言えない。ディスカッションをすると馬嶋のように光凝固がよいという者もいるし、東北大学の研究者のように冷凍凝固の方がよいという者もいる。」と述べている。

以上を総合すると、光凝固同様、冷凍凝固も未だ研究途上の治療法ではあつたものの、昭和五〇年四月当時には、その有効性についての報告が重ねられ、光凝固法にまさる面があるとの報告もあつたのであるから、冷凍凝固法は、光凝固法に劣るとの一般的知見は存しなかつたものと言わざるをえない。

3  被告らの病院及び医師らの当時の状況

証人滝本昌俊、同藤岡憲三及び同実藤誠の各証言によれば、以下の事実が認められる。

(一)  旭川厚生病院

旭川厚生病院は、昭和四八年当時、内科、外科、整形外科、小児科、産婦人科、眼科、耳鼻科を有する総合病院であり、小児科医は、当時品田医師一人であつた。新生児の保育については、本来産科の業務分野であつたが、未熟児など、産婦人科から特に依頼を受けた新生児については、小児科が保育の任にあたる態勢をとつていた。

新生児室勤務の看護婦は、昭和四八年一月当時、正規の者六名、助手若干名であり、同年一月二九日には、小児科二名、産科(問題のない新生児)三〇名、計三二名が入院している程度であつた。

品田医師は、昭和二二年九月に北海道大学医学部を卒業し、昭和二三年一〇月から同大学小児科教室に入局し、以来青森県立中央病院など幾つかの病院を経て、昭和三一年一一月からは旭川厚生病院に小児科医長として勤務していたものである。同医師は、昭和三一年二月、東京の愛育会病院において行なわれた保育研修に参加したのをはじめとして、以来、青森県立病院時代に約五例、旭川厚生病院において、本件診療当時まで約三五〇例の未熟児(生下時体重一五〇〇グラム以下の極小未熟児は約七〇名)の保育に携わつた。しかし、それまで未熟児網膜症に罹患した者は一人も経験しておらず、また地域の医療機関関係者らから本症の発生の話を聞いたこともなかつた。同医師は、当時、「小児科診療」、「小児科臨床」、「日本小児科学会雑誌」などを講読していた。

(二)  深川市立総合病院

深川市立総合病院の常勤の小児科医は滝本医師一人であり、この他に旭川医科大学から非常勤の医師が週に数日応援に来ていた。また、眼科には、藤岡医師のほかに、一年後輩の勝又医師がいた。新生児は当然に小児科の担当となり、新生児室の看護婦は昭和五〇年四月当時四人であつた。

滝本医師は、昭和四一年、北海道大学医学部を卒業し、一年間同大学医学部附属病院においてインターンを勤めたのち、同大学医学部小児科教室、札幌斗南病院、帯広厚生病院、札幌天使病院、北見赤十字病院、同大学医学部の各小児科医を経て、昭和四九年四月に、深川市立総合病院の小児科に小児科医長として赴任したものである。同医師は、当時まで約三〇〇人の未熟児の保育経験を有していたが、一五〇〇グラム以下の極小未熟児はおよそ一〇人前後であり、それまで未熟児網膜症に接した経験はなく、身近に本症が発生した話を聞いたこともなかつた。

藤岡医師は、昭和四一年弘前大学医学部を卒業後、昭和四四年から同大学助手となり、昭和四七年に深川市立総合病院の眼科医として赴任した。本件まで、未熟児の眼底検査は一五ないし二〇例経験していたが、未熟児網膜症については瘢痕期の症例を診たことがあつたものの、活動期の症例については全く経験したことがなかつた。

(三)  市立札幌病院

市立札幌病院の実藤医師は、昭和四一年、岩手医科大学を卒業後、昭和四三年に北海道大学医学部眼科学教室に入局し、昭和四九年八月から市立札幌病院に眼科医として勤務していたものである。昭和四七年から臨床として未熟児網膜症を扱い、昭和四九年以降約一三〇の本症例に接している。

以上認定したところによれば、旭川厚生病院、深川市立総合病院は、いずれも地方の中規模程度の病院と推認され、前記各医師は、いずれも相応の年数、各担当分野で治療に携わつているのであるから、本症に直接かかわつた経験が存しなかつたとはいえ、品田、滝本医師は通常の小児科専門医として、藤岡医師は眼科専門医として、それぞれ、本症につき、前記一般的医療水準として認定した程度の水準での一般的知見を有すべきであり、また、実藤医師は、本症について一応の経験を積んだ臨床医としての知見を有すべきであつたと認めるのが相当である。

六  被告らの責任

1  被告厚生連

(一)  全身管理務違反について

前段認定の事実に基づいて考察するに、不適切な全身管理は、未熟児の一般状態を悪化させ、ひいては、本症発症の素地を作り、本来ならば不必要であつた酸素投与を余儀なくさせたり、あるいは、適期に眼底検査を受ける機会を逸しさせる事態を招きかねず、したがつて、全身管理義務違反は、本症発生の間接的誘因となりうるものというべきである。原告渡邊らは、原告恵の主治医であつた被告厚生連の品田医師に、以下のような過失があつたと主張するので、検討する。

(1) 一般管理義務違反

原告渡邊らは、品田医師には、時々刻々と変化する児の全身状態を注意深く観察し、これに対し適切な呼吸管理、体温管理、栄養の管理、感染防止措置等の全身管理をして、児の全身状態を良好を保つべき注意義務が存するのに、同医師は、これを怠り、原告恵の全身、身体各部の注意深い観察、触診、聴診、打診を用いての体格、栄養、皮膚の状態、呼吸、脈搏の状態、心音等の診察を全くしなかつたか、あるいはほとんどしなかつたと主張する。

そこで、検討するに、品田医師に、当時の医療水準に従つた右のような一般的注意義務が存することは、前記のとおりであるところ、前記第二項の1「原告恵の失明に至る経緯」に示した事実、〈証拠〉を総合すると、同医師は、原告恵を原則として一日二回、午前八時三〇分と午後四時三〇分に診察のうえ、その全身状態、保育器内の温度、湿度等を観察して、栄養、感染防止措置等について逐次指示を出すほか、看護婦をして同原告の体重測定をさせたり、一日四回、同原告の脈搏、呼吸数、直腸温を測定させ、また、随時その全身状況を観察させていたことが認められる。確かに、右各証拠によれば、回診の際の同医師による所見、指示等がほとんど記録にとどめられていないことが認められるが、この事実をもつて、観察、指示が行なわれなかつたとか、あるいは、不十分、不適切であつたと推認することはできない。また、触診、聴診、打診を行なつた記録は存しないが、患児の安静の要請から、右のような診察方法が患児の一般状態に関係なく常に要求されるものでもない。

そして、右指示に基づく看護により、原告恵は、極小未熟児であつたにもかかわらず、高ビリルビン血症や、胃腸管障害、呼吸循環障害を合併することもなく、良好に体重も増加して、極めて順調な経過をたどつているのであるから、品田医師の管理は適切であつたと推認するのが相当であり、これを覆すに足りる証拠は存しない。

(2) 体温管理義務違反

原告渡邊らは、原告恵のような極端な低体温児に対しては、これを改善するため、より積極的な加温措置(温枕、保温マット、赤外線ヒーターの使用等)を用いるべきであつたのに、品田医師は適切な措置をとらなかつたと主張する。

そこで検討するに、原告恵の体温は、生後一〇日目位まで三二度C台、以後生後二〇日目位まで三三ないし三四度C台、以後二七日目位まで三五度C台という低体温が続き、ほぼ安定して三六度Cになつたのは生後三五日目位であつたことは前記認定のとおりである。しかし、これに対し、いかなる加温措置が適切であるかという点に関しての当時の一般的知見は、前記認定のとおり、一〇〇一ないし一二〇〇グラムの児の場合は保育器内の温度を三四ないし三五度C前後とし、急激な加温や児の体温と保育器内温度に大きく差をつけるのは避けるべきであるとの内容であり、前記馬場の基準が標準的なものであつたと認められる。そして、乙B第六号証によれば、当時、原告恵に使用した保育器には、安全装置として、器内温度が三五ないし三八度C以上に上昇した場合には、ヒーターへの通電が止まり、同時にブザーが鳴るようになつていたことが認められる。

ところで、品田医師は、前記認定のとおり、原告恵の出生直後の午後七時五〇分ころ、保育器内の温度を三四度Cと設定するよう指示し、以後一日二回、回診の度にその指示が守られているか確認していたこと、その後は、前記馬場の表に従い温度調節がなされていたことが認められるところ、右は当時の医療水準では、適切な管理方法と考えられていたことは前記のとおりであり、同医師は、当時の保育器の最高温度を設定しているのである。

また、鑑定証人老川忠雄も、品田医師の体温管理につき、以下のように証言している。「未熟児の呼吸を誘発する因子の一番大きいものは、体表の温度が低いという刺激である。体表が冷えてくることによつて、それが一種のリセプターとなつて、温度を上げるために代謝が活発化する。皮膚温を急に暖めると代謝がうまくいかなくなり、危険である。その意味で直腸温と保育器内温度は一・五度C以上の差をつけるべきではない、との考え方もある。器内温度三四度Cというのは、不適当とは言えない。」

以上を総合すると、品田医師の体温管理には過失がなかつたと認められ、これを覆すに足りる証拠はない。

(3) 栄養管理義務違反

原告渡邊らは、原告恵の生下時体重への回復が遅れた原因の一つに、栄養補給の不適切さ(哺乳量の過少、輸液しなかつたこと)があるとする。

そこで検討するに、前記認定のとおり、品田医師は、生後約四八時間後の一月三一日午後八時ころから、原告恵に対しミルク一回二ミリリットルの投与を開始し、二月一日には計一八ミリリットル、同月二日には計二六ミリリットルと増量している。これは、当時の一般的知見に照らし、少な過ぎるとは言いえず、逆に当時の栄養過多を厳しく戒める諸文献の存在に鑑みても、適切なものであつたものというべきである。

そして、他に品田医師による全身管理が不適切であつたことを窺わせる証拠も在しないから、同医師の措置は、当時の医療水準にかなつた適切なものであつたと推認するのが相当である。

(二)  酸素管理義務違反について

原告渡邊らは、品田医師には、酸素投与の適応でないのにこれを投与し、しかも原告恵を頻回に観察し、病状に応じて酸素を打切つたり、濃度を減らす等のきめ細かな酸素管理をする義務があるのに、これを怠つた過失があると主張する。

そこで検討するに、品田医師が、原告恵に対し、出生直後から一月三一日午後六時まで、毎分三リットル、以後三月一〇日に酸素投与を中止するまで、毎分二リットルの酸素投与を継続したことは前記認定のとおりである。

右のような酸素投与を指示した理由につき、証人品田茂は、次のように証言している。

(1) 昭和三一年二月、未熟児保育についての講習を受けて以来、酸素の過剰投与は本症の発症を促すから、酸素濃度が四〇パーセントを超えてはならないとの認識を有していた。しかし、それも一つのメルクマールであつて、少なければ少ないに越したことはないと考えていた。

(2) 一月二九日、産科の神戸医師から酸素三リットルを投与している旨の引き継ぎを受けた際、品田医師は、分娩直後の陥没呼吸等が酸素投与により消失したとの話であり、呼吸数が六六であつたところから、適切な措置と考え、三リットルの投与続行を指示した。

(3) 一月三〇日、初診の際は、原告恵が生下時体重一一六〇グラムという極小未熟児であつたこと、当初のチアノーゼ、陥没呼吸が酸素により消失したとの報告であつたこと、前日の呼吸数六六は、未熟児としての正常値四〇をはるかにこえるものであるうえ、当日の朝は四〇に下がつていたものの、それは酸素投与下のことであり、不安定なものと判断されたこと、及び直腸温三二・六度Cという低体温が改善していないことなどから、救命を第一義とする以上、現時点ですぐに酸素投与を減らすとの決断はできないが、翌日の午後六時くらいまで様子を見て、減らそうと考えた。

(4) 一月三一日午後六時、二リットルに減量。しかしその後も低体温が持続し、生下時体重への復帰も通常の場合より遅れており、これらのことから低酸素症と考えられたため、三月一〇日まで酸素投与を中止できなかつた。

なお、同証人の証言によれば、旭川厚生病院では、昭和四〇年からアトム簡式酸素濃度計を備えているが、不正確であつたことと、絶えず濃度を合わせなければならないという難点があつたため、昭和四二年ころ故障をしたのを機に流量管理に切りかえたこと、直読式の濃度計を購入したのは本件後の昭和四九年であつたこと、その間濃度計は使つていなかつたが、購入時に流量と濃度の関係を測定し、三リットルで三五プラスマイナス一パーセント、二リットルで三〇プラスマイナス一パーセントになることを知つていたこと及び前掲保育器使用説明書には、流量三ないし四リットルで器内濃度が四〇パーセントとの記載があるので、これを基準に流量を決定していたことが認められ〈る。〉

そこで、品田医師の右各措置の適否につき検討する。

まず、当初の指示について見るに、〈証拠〉によれば、当時①生後三時間以内に呼吸数が一分間六〇以上になる、②うなり声を発する、③陥没呼吸、④酸素を投与しないとチアノーゼがあらわれるなどの症状があれば、未熟児死亡の大きな原因である特発性呼吸窮迫症候群(IRDS)の疑いが濃厚であり、酸素投与の適応があると考えられていたことが認められるところ、原告恵には、当初陥没呼吸が存し、また、呼吸数が六六に及んでいたから、品田医師が酸素投与を必要と認め、一月三一日の午後六時まで原告恵の酸素投与の続行を指示したのは適切であつたというべきである。前記認定のとおり、当時、いわゆるワーレー・アンド・ガードナー法のみが一般的知見であつたとは認められないから、チアノーゼが存しないからといつて、酸素投与を続行させた指示が直ちに不適切とは言いえない。また、当時、PaO2値測定による酸素投与の調節が困難な状況にあつたことも前記認定のとおりであるから、品田医師がその経験により三リットルの流量では四〇パーセントの濃度を超えないと考え、四〇パーセント以下であれば一応許される範囲内であると考えたこともやむをえない措置と言わなければならない。

そこで、品田医師が、その後三月一〇日まで二リットルの酸素投与を続行したことの適否につき考えるに、前記認定によれば、品田医師が酸素投与の適応とする低体温が持続したことは認められるが、鑑定証人老川忠雄の証言及び同人の鑑定の結果によれば、それは出生時の低温暴露による体内温度のセットポイントの低下あるいは生下直後の熱産生が十分でなかつたことが原因とも考えられ、その後の経過が比較的良好であつたことを考慮すると、真に酸素の投与を続行しなければならない状態であつたかは疑問が存する。しかしながら、〈証拠〉によれば、当時、「直腸温の低下により、酸素の必要を間接的に評価しうる。」旨のScopesとAhmedの論文があり、品田医師はこの説によつていたこと、他方、当時我が国では、体温調節に関する、一般的知識が乏しく、原告恵の低体温の原因を正しく証価することは因難であつたと認められるから、品田医師が低体温をもつて酸素投与の適応と判断したこともやむをえないところであつて、同医師には過失はなかつたといわざるをえない。

(三)  眼底検査義務及び治療義務違反について

原告渡邊らは、旭川厚生病院は、総合病院であつたから、品田医師は、原告恵に眼底検査を受けさせることが容易であつたにもかかわらず、これを怠つた旨主張する。

そこで検討するに、当時眼底検査の必要性が多くの文献に指摘されていたことは前記認定のとおりであり、証人品田の証言によれば、品田医師自身も昭和四五年欧米の医療事情視察の際、イタリアの国立病院で眼底検査をやつている旨聞き、帰国後旭川厚生病院の医局でその話をしたところ、その場に居合わせた眼科医長の梅野医師が「やつたことがないからできない。できる人がいればやつた方がよいのだろうが。」という返答であつたため、やむなく断念したこと、その後昭和四八年一二月、梅野医師に対し、本件当時眼底検査ができる病院があつたか尋ねたところ、「いや、できないでしょう。」と答えたことが認められるから、これらをあわせ考えると、本件当時、旭川厚生病院眼科では、未熟児の眼底検査ができる態勢がととのつていなかつたと認めるのが相当である。その後昭和四八年八月二一日に同病院で原告恵の眼を診察し、同原告が未熟児網膜症である旨診断していることは前記認定のとおりであるが、これは本件後七か月ほど経つてのことであり、右事実から本件当時も眼底検査が可能であつたとは推認できず、他に前記認定を覆すに足りる証拠はない。

そして、本件当時眼底検査についての必要性は浸透していたものの、その修得は誠に因難で、当時の医療水準によれば一般眼科専門医に要求しえなかつたことも前記のとおりであるから、旭川厚生病院で眼底検査を施行しなかつたことをもつて、所属医の過失ということはできない。

また、原告渡邊らは、旭川厚生病院において眼底検査を怠つたことがひいては、当時すでに確立していた光凝固法又は冷凍凝固法という治療手段を尽くす義務を怠つたことになると主張するが、眼底検査をしなかつたこと自体をもつて過失とすることができない以上、右の主張も理由がない。

(四)  説明、転医義務違反について

原告渡邊らは、品田医師には、原告恵に光凝固法あるいは冷凍凝固法を受ける機会を与えるため、本症の発症を予期して本症発症の可能性、眼底検査の必要性及び光凝固法ないし冷凍凝固法による治療方法がある旨を両親に説明したうえ、適切な専門医療機関を紹介、転医させるか、その診断を受けるように勧告すべき義務がありながら、これを怠つた過失があると主張する。

そこで検討するに、本症が、体重一五〇〇グラム以下、在胎三二週以下の未熟児に多く発症し、酸素の投与がその誘因であること、酸素濃度が四〇パーセント以下でも発症する例があること、本症発見のためには、生後三週間目位からの、定期的眼底検査が必要であること、治療法として光凝固法があることが、いずれも、当時の一般的知見であつたことは前記認定のとおりであり、〈証拠〉によれば、北大病院眼科においては、昭和四六年終りころからは未熟児の眼底検査が可能であつて、現に実施しており、そのころからは本症例に対する光凝固も行なつていたことが認められる。

本件の場合、原告恵は、体重一一六〇グラム、在胎三一週で出生した未熟児であり、生後四〇日目まで酸素の投与を受けていたのであるから、品田医師としては、当然本症発生の可能性が存することを認識すべきであり、原告恵の全身状態が眼底検査に耐えうる状態になつてから可及的すみやかに、遅くとも退院時までには、原告恵に治療の機会を与えるべく、転医させるなり、両親に眼底検査の必要性を説明するなりすべきであつたといわざるをえない。

証人品田茂の証言によれば、品田医師は、当時書物で光凝固の名前を見たことはあり、また、前記認定のとおり眼底検査の必要性も認識し、北大病院に行けば眼底検査ができることを知つていたことが認められるから、右義務を尽くすことは十分可能であつたと認められる。

品田医師は、この点につき、「退院時の事後指導は、特に両親から求めがないかぎり、新生児室の日勤看護婦が行なうシステムであつた。当時、原告恵については、酸素をできるだけ少なく使つた成功例であつて、網膜症が起きるとは考えていなかつた。もつとも眼底を診てくるところがあれば診に行つてほしいという感じはあつたが、どこが診てくれるかわからなかつた。退院時両親が聞きに来れば、診てもらうように言つたと思うが、両親に接触する機会もなかつたので、そのような指導はしなかつた。」旨証言するが、前記認定の酸素投与状況によれば、漫然と、本症が発症しないであろうと判断したことは適切とは言えないし、またその必要性を認識しながら、素人である両親が聞きに来ないので説明しないというのでは、医師としての責任の放棄であつて、少なくとも両親に連絡をとり、本症発症の可能性と眼底検査の必要性を説明すべきであつたものというべきである。

したがつて、品田医師に、右の点に関する過失があつたものと認められる。

2  被告深川市

(一)  全身管理義務違反について

(1) 一般管理義務違反

原告伊藤らは、滝本医師には、原告啓一朗の全身及び身体各部を注意深く観察し、触診、打診を用いて、体格、栄養、皮膚の状態、呼吸、脈搏の状態、心音等を診察することを全くしなかつたか、ほとんど診察しなかつた過失があるとする。そこで検討するに、前記第二項の2「原告啓一朗の失明に至る経緯」に示した事実、〈証拠〉を総合すると、同医師は原告啓一朗を原則として毎日回診し、その全身状態等を観察して逐次指示を出すほか、看護婦をして同原告の体重測定をさせたり、一日四回同原告の脈搏、呼吸数、直腸温を測定させ、また随時その全身状況を観察させていたことが認められる。そして、医師の指示について記録がほとんど残されていないこと、触診、聴診、打診を行なつた記録の存しないことが、同医師の管理が不適切であつたことを推認させる事実でないことは前記品田医師について示したのと同様であつて、その看護の結果、同原告は全身状態良好で経過も極めて順調であつたから、その全身管理は適切であつたと推認することができる。

(2) 体温管理義務違反

原告伊藤らは、原告啓一朗のような極端な低体温児に対しては、これを改善するため、より積極的な加温措置(温枕、保温マット、赤外線ヒーターの使用等)を用いるべきであつたのに、滝本医師は適切な措置をとらなかつたと主張する。

そこで検討するに、原告啓一朗が、出生後約一時間ほど経過した二月一五日午前三時三〇分に三二・七度Cという低体温であり、生後一五日目ころまではおおむね三三〜三四度C前後、生後三五日目ころまでは三五度C前後に推移し、その後ようやく三六度C台になつていた経過は前記認定のとおりである。しかし、これに対し、いかなる加温措置が適切であるかという点に関しての当時の一般的知見は、前記認定のとおりであつて、乙C第六号証によれば、当時原告啓一朗に使用した保育器には、安全装置として、器内温度が三六〜三八度C以上になるとブザーが鳴り、ヒーターの電源が遮断される仕組みになつていたことが認められる。

ところで滝本医師は、前記のとおり原告啓一朗の保育器の温度を、クラウスとアナロフの表に従い調節するよう指示していたのであるが、この表は概ね当時の標準的基準と一致していること、滝本医師が当時の保育器の最高温度に設定していることに照らせば、滝本医師の指示は適切なものであつたというべきであるし、また、同医師の証言によれば、保育器内の温度は計画どおり設定されていたため、特に記録が存しないことが認められ、これを覆すに足りる証拠もない。してみると滝本医師の体温管理は適切であつて、この点に同医師の過失はないものと認められる。

(3) 栄養管理義務違反

原告伊藤らは、原告啓一朗の生下時体重への回復が遅れた原因の一つに、栄養補給の不適切さがあつたとする。

そこで検討するに、前記認定のとおり、滝本医師は、生後約三三時間後の二月一六日午前一一時三〇分ころから三時間ごとに一ミリリットルの栄養注入を開始し、翌日から一回二ミリリットル、更にその翌日からはミルクに切り替え、一回二ミリリットルを投与し、次第に増量するよう指示し、その指示に従い増量されていることが認められる。これは、当時の一般的知見に照らし、少な過ぎるとは言いえず、適切なものであつたと認められる。

そして、他に滝本医師による全身管理が不適切であつたことを窺わせる証拠も存しないから、同医師の措置は、当時の医療水準にかなつた適切なものであつたと推認するのが相当である。

(二)  酸素管理義務違反について

原告伊藤らは、滝本医師には、酸素投与の適応でないのにこれを投与し、また仮に必要であつたとしてもPaO2値を測定してきめ細かな酸素管理をすべきであつたのに、これを怠つた過失があると主張する。

そこで検討するに、〈証拠〉によれば、滝本医師は、原告啓一朗が呼吸速迫、低体温であると考え、これを低酸素血症の徴候と理解し、器内濃度を早く三〇パーセントにしようと考えて、流量毎分三リットルで酸素濃度が三二〜三六パーセントになるとの使用説明書の基準を目安に、当初三リットルの投与を指示し、その後器内酸素濃度が三〇パーセントを超えたため、投与量を二リットル、一・五リットルと順次減量し、一日が無事に経過した段階で、生命の危険は減つたとの判断の下に、一リットルとし、生後四日目に、更に死亡の危険率が下がつたと考え、〇・五リットルとし、一週間を過ぎたところで、呼吸速迫は改善されないものの、一週間を無事に過ぎれば未熟児の死亡率は急激に低下するところから、これを打ち切つたことが認められる。

右判断の適否につき検討すると、〈証拠〉によれば、呼吸数四〇ないし六〇は、未熟児の場合正常範囲内と考えられているから、原告啓一朗について、呼吸速迫を理由に酸素を投与する必要はなかつた。また、右鑑定の結果によれば、原告啓一朗の低体温は、出生時の低温暴露による体内温度のセットポイントの低下あるいは生下直後の熱産生が十分でなかつたことが原因とも考えられるから、真に酸素の投与が必要であつたかは疑問が存する。しかしながら、前記認定のとおり、当時我が国では体温調節に関する一般的知識が乏しく、原告啓一朗の低体温の原因を正しく評価することは困難であつたと認められるから、滝本医師が低体温をもつて酸素投与の適応と判断したこともやむをえないものというべく、同医師にはこの点に過失がなかつたと言わざるをえない。

また、滝本証人の証言によれば、当時深川市立病院には酸素分圧測定器ラジオメーターが備わつていたことが認められるが、これを利用するには、一回一CCの血液を採取し、一日四ないし六回測定するのでなければ意味がなく、使用を断念したことが認められ、当時のPaO2測定に関する前記認定の種々の難点、特に未熟児への侵襲を考えると、右判断が不適切とは言えない。

(三)  眼底検査義務違反について

原告伊藤らは、滝本医師には原告啓一朗に対し遅くとも生後三週間目くらいから定期的に眼底検査を受けさせる義務があつたのに、漫然と生後六〇日まで放置した過失があると主張する。

そこで検討するに、眼底検査は、生後三週以降において定期的に行なうべきものとされていたのに、原告啓一朗が深川市立病院においてはじめて眼底検査を受けたのは生後五九日目であつたことは前示のとおりである。鑑定証人植村恭夫の証言及び同人の鑑定の結果によると、眼科の立場から見た場合、同原告に眼底検査がなされた時期は遅きに失したものと認められる。

そこで次に、このように眼底検査が遅れた事情について見るに、〈証拠〉によれば、次の事実が認められる。

(1)  当時深川市立総合病院では、未熟児の眼底検査の必要性を認識し、眼科と小児科が連携して眼底検査をする態勢ができており、通常生後四ないし五週位で小児科から眼科に依頼し、未熟児の眼底検査をする扱いになつていた。

(2)  小児科の滝本医師は、未熟児に酸素を投与した場合本症の発症があり得ることが念頭にあつたため、原告啓一朗もなるべく早く眼底検査を受けさせようと考えていたが、生下時体重に戻つたのが生後二八日目であり、低体温が正常化したのは三五日目ころからであつて、その後も退院時までずつと呼吸速迫が続いており、酸素投与も最小限に済ませたから本症発症の危険も差し迫つたものではないと考え、眼底検査にまわせなかつた。すなわち、眼底検査のため保育器外に出すことにより、急に体温が下降して呼吸不全が起こり、また酸素消費量がふえて低酸素症が起こることが心配されたというのである。

そこで、右判断の適否を検討すると、眼底検査よりも生命の安全が優先する点については多言を要しないものの本件の場合、前記「原告啓一朗の失明に至る経緯」において認定した事実によれば、原告啓一朗は、体温の正常化に三五日ほどかかつたとはいえ、その後は時折呼吸が六〇をこえるほかは一般状態良好で、体重も順調に増加していることが認められ、また滝本医師は眼底検査を許可した翌日には、原告啓一朗の両親に対し、同原告を抱いて電車で深川市から札幌市の市立札幌病院へ連れて行くよう指示し、救急車、看護婦の付添を不要としており、また、同病院に対し、「保育器内が安全かと思いますが、普通のベビーのように着物を着せてややあたたかめにしておけば保育器外でも体温調節は十分かと存じます。」と申し送りをしているのである。滝本医師は、呼吸数が四〇ないし六〇前後である点を呼吸速迫ととらえているが、右の範囲が正常の数値であり、文献上もそのように記載されていることは前示のとおりであるし、〈証拠〉によると、藤岡医師が保育器から未熟児を出してその眼底を検査する場合の検査自体の所要時間は、両眼でもスムーズにいけば通常六分程度であることが認められ、現に原告啓一朗についても約一五分程度で検査がなされているのである。右の事実によれば、同原告の体温が正常化した後、五九日目までのもう少し早い時期に眼底検査が可能であつたのではないかと考えられ、その時期の児の状態が眼底検査をも許さない程の悪い状態にあつたとの特段の反証もない以上、小児科の立場からいつても、滝本医師が眼底検査の指示をした時期は遅きに失したものといわざるをえず、この点で、同医師の過失は免れないものと認めるのが相当である。

(四)  治療義務違反について

原告伊藤らは、深川市立総合病院には当時光凝固装置が備付けられていたのであるから、同病院において光凝固手術をすべきであつたと主張する。

そこで検討するに、〈証拠〉によると、当時深川市立総合病院には光凝固装置があつたが、この機械は西独カールツアイス製のものであつて、未熟児の眼底に使用するには必ずしも適したものではなかつたこと、本症の光凝固には、多年の経験と知識が要求されるのは前記認定のとおりであるが、藤岡医師が本症の活動期症例を見たのはこのときが初めてであつて、右の機械を使用して行なう光凝固に自信が持てなかつたこと及び同医師は同年四月二〇日ころ同病院を退職する予定になつており、後任者も決まつていなかつたため、経過観察を十分行なうことができないこと等を考慮し、深川市立総合病院では光凝固を行なわず、市立札幌病院に転医することを勧めたものであることが認められ、この認定を左右する証拠はない。

右の事実によれば、藤岡医師が自ら光凝固を行なわず、転医を勧めたのは誠に適切な判断であつたというべきであつて、この点に過失はなかつたものと認められる。

(五)  転医先選定判断の誤りについて

原告伊藤らは、藤岡医師は本症を確認した際、市立札幌病院への転医を勧めるべきではなく、光凝固装置のある北大病院への転医を勧めるべきであり、同医師には、転医先の選定を誤まつた過失があると主張する。

そこで検討するに、〈証拠〉によれば、市立札幌病院には冷凍凝固装置があり、同病院の実藤医師は、当時本症の治療を数多く手がけ、昭和四八ないし四九年ころにも学会でその成果を発表しており、もし光凝固が妥当と考えれば北大病院にあつた東独カール・ツアイス製の機械を借用して、自由に光凝固も施行しうる状況にあつたこと、このようなことから、藤岡医師は、実藤医師を本症の大家と考え、かつ北大病院の場合、自己の経験に照らすと、小児科と眼科の連携が十分でなく、その点では市立札幌病院の方が優つていると考えて転医先を選定したことが認められるのであつて、この判断には何ら過失は存しない。

3  被告札幌市

原告伊藤らは、市立札幌病院の実藤医師には、第一の治療法として光凝固法を選定しなかつた過失並びに光凝固及び冷凍凝固施行の際の手術の不手際(凝固の箇所及び凝固の程度が不十分であつたこと)が存したと主張する。

そこで検討するに、冷凍凝固は光凝固と並んで有効な治療法であると当時発表されていたこと、植村恭夫が、昭和四七年六月「小児科臨床」二五巻六号に「現段階では光凝固、冷凍凝固にまさる治療法はない。」旨発表していたこと及び冷凍凝固法の利点は前示のとおりであるところ、証人実藤誠の証言によれば、実藤医師は、そのころ植村の右論文を見て、この道の第一人者がこのように言うのであるから冷凍凝固は治療法として行われてよいものであると考え、昭和四九年一二月から昭和五〇年一月までの間に、市立札幌病院において一一例につき冷凍凝固を行なつていたこと、原告啓一朗については、無血管帯が広く、滲出性剥離もみられたことなどから冷凍凝固の適応と判断して、施行したことが認められる。これらの事実によれば実藤医師が、当時部分的に滲出性剥離の見られた原告啓一朗に対し、最初に冷凍凝固を選択した判断には、当時の医師水準に照らし、過失はないものというべきである。

なお、〈証拠〉によれば、本件後新潟で開かれた北日本眼科学会において、実藤医師が市立札幌病院における冷凍凝固施行の報告をし、馬嶋昭生が光凝固をファストチョイスとすべきではないかと指摘し、これに対し実藤医師が「我々も冷凍凝固をファストチョイスとは考えていない。」旨発言していることが認められるが、当時から光凝固と冷凍凝固には一長一短が指摘され、どちらがより有効であるとの認定ができないことは前記のとおりであり、また、右〈証拠〉の記載を証人実藤誠の証言と合わせ、つぶさに検討すると、右眼科学会での同医師の発言は、光凝固をファストチョイスとすべきであるとの馬嶋の見解に同調したものでもなく、結局「どちらを最初にやるべきかを断定できない。」という趣旨であると認められ、したがつて、右の認定を覆すに足りない。

してみると、実藤医師がまず冷凍凝固を行なつたことについては、何ら過失はなかつたものといわなければならない。

次に、実藤医師の光凝固、冷凍凝固の施行方法は、前記認定のとおりであつて、これは当時行なわれていた標準的方法と認められ、これを覆すに足りる証拠はない。それにもかかわらず原告啓一朗が失明に至つたのは、同原告の症状が前記のとおり光凝固又は冷凍凝固が効を奏さない場合の多いⅡ型であつたこと及び治療時期の遅れに原因の存した可能性が高く、失明という結果から治療の不手際を推認することはできない。

よつて、実藤医師には過失はなかつたものというべきである。

七  因果関係

以上認定したところによれば、被告厚生連の品田医師は転医、説明義務違反の点で、また被告深川市の滝本医師は眼底検査義務違反の点で、それぞれ過失があつたものというべきであるから、次にこれらの過失と原告らの損害との因果関係について検討する。

右転医、説明義務及び眼底検査義務は、いずれも原告渡邊ら及び原告伊藤らに適期に治療を受けさせる機会を与えるための義務であるから、右過失と原告恵及び原告啓一朗の失明による損害との因果関係を肯定するためには、適期に本症についての説明を受け、あるいは眼底検査を受けていれば、治療によつて失明に至らなかつた高度の蓋然性の存在が必要である。

ところで、本件当時、本症の治療法として有効視されていたのは光凝固法あるいは冷凍凝固法であるが、これらの治療法の有効性については、現在では大きな疑問が投げかけられていることは前記認定のとおりであつて、その適応とされるⅠ型のうち自然治癒傾向を示さない重症例及びⅡ型に対しても、これらの治療法を施せば失明には至らなかつたであろうとの高度の蓋然性を肯定することは到底できないのが現状である。そうすると、右過失行為が存在しなくとも原告恵及び原告啓一朗が失明に至つた可能性は大きく、結局右各過失行為と失明との間の因果関係は肯定しえないといわざるをえない。

しかしながら、逆に光凝固又は冷凍凝固が全く無効であるとの証拠もないのである。鑑定証人植村恭夫は「みすみす剥離していくんだつたら、他に方法がない以上、これらの治療法を行なうというのが多くの人の考え方だと思う。Ⅱ型の場合、自分では適切な時期にこれらの療法を行なえば、三〇パーセントは有効(剥離を食いとめられる)と考えるが、あとはだめです。」と述べているのであつて、前記認定のとおり、多くの医師は、科学的な効果判定を不明としながらも、緊急避難的な治療法として光凝固又は冷凍凝固を行なつているのが現状なのである。失明という重大な結果の発生を目前にするならば、わずかな可能性であつてもこれを受け又は受けさせるというのが通常であり、その治療法が右のとおり全く無効というものではなく、しかも多くの医師が行なつているものであるとするならば、患児が適期にこのような治療を受け、又は両親が患児にこれを受けさせる機会は尊重されるべきである。

本件の場合、以上認定の事実によれば、原告恵に対しては説明義務が、原告啓一朗に対しては眼底検査義務が、それぞれ患児の全身状態に照らして可及的速やかに尽くされていれば、同原告らは適期にこれらの治療を受けえた可能性も存するのであつて、現段階においては同原告らの発症時期、初期の経過等を解明するすべもないため果たして適期における治療が可能であつたか否かまでは確定しえないものの、右治療を受けうる可能性を奪われたことによる精神的苦痛と右の各過失との間には相当因果関係があるものと認められる。

なお、原告らは、失明による精神的損害を慰謝料として請求しているが、右精神的損害の中には、失明に起因する様々な苦痛に加え、失明に至るまでの様々な精神的苦痛をも内包していると解するのが相当であり、治療を受けうる可能性を一方的に奪われた苦痛もまた、その主張の中に含まれていると解すべきである。

してみると被告厚生連及び深川市は、それぞれ原告渡邊ら及び原告伊藤らに対し、民法七一五条に基づき、原告らが被つた右精神的苦痛を慰謝するための賠償をなす義務がある。

八  損害

原告恵及び同啓一朗は、本症による両眼失明のため、生涯を盲目のまま過ごすこととなり、職業、社会生活はもとより、日常生活にも重大な制約を受けることが推認される。そして、現在光凝固法等の有効性が証明されていないとはいえ、適期に治療の機会が与えられたならば、失明を免れた可能性がないとはいえず、そのような可能性にかける機会を失つたことによる精神的苦痛は誠に甚大なものと認められる。

また、これを見守る原告繁、同範子、同二三男、同昭美ら両親の精神的苦痛も、同様に、決して少なからざるものがあるというべきである。

そこで、原告らの精神的苦痛の程度、本症が眼底の未熟性を主因とする疾病であること、被告の過失の程度、内容、光凝固法による治療効果、その他本件にあらわれた一切の事情を考慮すると、被告厚生連が賠償すべき慰謝料は、原告恵に対し金三〇〇万円、原告繁及び同範子に対し各金一〇〇万円をもつて相当と認め、被告深川市が賠償すべき慰謝料は、原告啓一朗に対し金三〇〇万円、原告二三男及び同昭美に対し各金一〇〇万円をもつて相当と認める。

次に、弁護士費用については、原告らが原告訴訟代理人らに本件訴訟を委任したことは、当事者間に争いがない。これに、本件事案の内容、本件訴訟の経緯、認容額等諸般の事情を総合すると、被告厚生連及び同深川市が、それぞれ原告及び同啓一朗に賠償すべき弁護士料は各金三〇万円、原告繁、同範子、同二三男、同昭美に賠償すべき弁護士料は各金一〇万円をもつて相当と認める。

九  結論

以上の次第であるから、原告渡邊らの被告厚生連に対する請求は、原告恵につき金三三〇万円、原告繁及び同範子につき各金一一〇万円並びにこれらに対する不法行為の後である昭和五三年五月二五日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を、また原告伊藤らの被告深川市に対する請求は、原告啓一朗につき金三三〇万円、原告二三男及び同昭美につき各金一一〇万円並びにこれらに対する不法行為の後である昭和五三年五月二五日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払をそれぞれ求める限度において理由があるから認容するが、その余はいずれも失当として棄却し、原告伊藤らの被告札幌市に対する請求はすべて失当であるから棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条、九三条を、仮執行宣言につき同法一九六条をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官北澤 晶 裁判官秋吉仁美 裁判長裁判官原健三郎は転補のため署名押印できない。裁判官北澤 晶)

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